2012年6月15日金曜日

季節感

どうも、こう、
季節がかわります。春から夏へ、夏から秋へ、冬へ、それでまた春。
いつものように起きて、いつものように顔を洗い、いつものように家を出て、駅に向って歩く、けれど、何か新しいような、どこかに萌芽か瓦解をほのかに感じるような。
そういう風に季節は変わるでしょう。実際の季節も、抽象的な季節も。
そういう時はその場では分からなくても、のちのちああ、そうだったかな、あの日は何だか異なった。
とか、思うかもしれない。などと、思わせぶりなことを書いても仕方がない。
特に、思わせぶるつもりもなく、何か、伝えたいわけでもなく、
別に誰かの唄のマネしたいわけでもないけど。
ただ、何か変わるような気がして、何か。
そういつだって感じたい。

誰か常識って何、フツウって何、と酔うと誰かのマネをして聞いてくるけど、
そんなものはただのコトバだと言いたい。
季節もただの言葉であって誰かが決めたもの、おそらく日本の人。
だから3年越し、4年越し、9年越しに変わる季節もあっていいだろう、もちろん、一生続く季節も。

終りの季節って唄があるけどあれは何か爽やかで悲しいうたですね。
いけない、こんな悲しいことを書いていては。悲しくもないのに。
 
話を変えると、さいきんバタついていて何かしたいことが思うようにいかないのだった。しばらく、何かひまだったのに何かしたいことも特に思いつかなかったのに。
時間とは不条理不合理なものだけど、きっとそれはそういうものなのだろう。

えーと、






ストレンジ・フルーツ、過日の果実。
逃げるクダモノが、我が者顔で走る。

そう、一つ前のノートに書いてあるのは、何だったろうか。
ビューラー、ビューラー、我が者顔で走る、
He said, I love dogs and beauller, beauller,,
すべてが奇跡のようにうまく進んでいく、
フェリスはそれを見越したように、カメラに向ってニヤリ微笑む、腹立たしい。
しかしこの監督の技量たるや。
低音が美しく伸びる、空虚に部屋にこだまする。

そうそれで猫、それで草、それで樹々、それでむにゃむにゃむにゃ。

えーと、
つづきます。

2012年6月6日水曜日

禁煙と喫煙の害について

さいきん朝吸うと必ず吐きそうになる。朝家を出てひと道、曲がってふた道行く途中、路上の灰皿があるのでそこまで吸うけれど、一度二度、その灰皿に向ってだばーっと吐きそうになった。けれど何とかごまかして、水を飲んで電車に向う。
その灰皿のあたりから見えるのは、ホームの、電車の乗り口じゃない方の端。ひとつ信号の先に、電車が入っていく、出て行く。何かさわやかで大きな木があったり、点滅している黄信号、その先に踏切。たまに、赤いジャケトを着たおじさんがうろついている。
彼は、自主的に路上喫煙、ポイ捨てを追究しているらしい。現場を見た事はないけれど、そういうことをする人を取り締まっているらしい。
しかし、最近はよく見ない。

吐きそうになるときは、いつもある夜を思い出す。一月くらい前か、昼から飲んでいたら夜新宿のいずこで また人と会ってまた飲んでワインも2、3杯のんで、同じ電車の人がいたので彼と走って駆け乗って、立ったまんま映画の話なんかしながらその駅について、同じ灰皿がある辺りでばあー、ばあーっと吐いた。ほとんどワインであとは何かカケラのようなのがそこかしこに散らまる、近間にいた猫も散らまる。
それで次の日うろんと朝歩いていたら吐いた箇所がアスファルトに染みになっている。それから毎朝そのシミを確認していたが最近はもう見ない。

ところで、文章ってのはもっと自由で素敵な可能性を持っているだろうと最近よく思う。文学、、、最近美術写真映像いろんなものがつい文学してしまってるなと思うが、文章はそれをもっと乗り越えて、そうなんと言ったらいいか、読んでないけど、ピンチョンの小説のように自由なものではないでしょう、か、ね。頑張らなくちゃいけない。