2012年7月20日金曜日

メロウな妄想

ある夜、あるイベントにいって、ヒップホップの人びとを見た。皆とても気が利いていて、ロックしてる! 文学してる! と思った。もはや絵画のようにクラシックな言葉になってしまったロックバンドよりも、余程。でも、ロックするのは人生でとても大事なことだと思う。言葉が古くとも、いま使えばそれはまた新しい。ウーネリーズがROCKSというのがとても新鮮であるように。しかし例えば今夜はブギー・バックのようなあれはあれでよくない? よくなくない? よくなくなくない? とそれはそれでロックしているようであるが、あのレイドバックした空気の中ふんにゃりと皆たゆたっているような日本人のたまり場が好きになれない。わたしらはひとりかふたり、多くて3人でストイックにレイドバックしたい。でも、今夜は……を実は最近初めてちゃんと聴いたのだが、あれは素晴しい楽曲ですね。
 またある夜、下北のシャレたライブバーのようなところで、福岡史郎を見た。それはもう素敵なライブだったので 、唄がある、音楽がある、と思った。そうして気持よく酔っ払った。

 さいきん気になるのは久しぶりに読み返すドーマルの「類推の山」。文庫背面のコピーには、「はるかに高く遠く、光の過剰ゆえに不可視のまま、世界の中心にそびえる時空の原点―類推の山。その「至高点」をめざす真の精神の旅を、寓意と象徴、神秘と 不思議、美しい挿話をちりばめながら描き出したシュルレアリスム小説の傑作。“どこか爽快で、どこか微笑ましく、どこか「元気の出る」ような”心おどる物語」だという。そう、ユーモアが大事。だけどユーモアとは深い不可思議な技術である。先ほど「ロゴス亭」をこれも久々に読んだら、笑いが止まらなくなった、それも、一気に一話読み終えて最後の段落であははははと、嬉しく可笑しかった。これが、世界中の人たちに通じるというのが、はかばかしく素敵だと思う。

 素敵素敵じゃ話はすすまない。呟いてばかりで空気に消えていくばかり。モノローグにもなりやしない。対話などには程遠い。対話。対話を私はしたことがないのではないかと思うから、昨日のさっき、さっきと対話をした。
 日記を書こうと思うんだけど、何を書けばいい?
 恋のハナシなんてどうかしら、私はいろいろな恋をしました。高校の頃の塾で出会った人を見つめてみたり、文化祭で出会った子とホテルでキスをしたり。
 それは恥ずかしい、けれど、恋は生々しい感情がある、恋とは強いね。
 愛と恋は違うよね、とよく言うけど、そうだね。
 愛は何だか、もっとユニバーサルなものだね、ユニバーサルデザイン。ペットボトルのキャップ。
 恋ってさ、抱きしめて抱きしめて、抱きしめてもっと抱きしめて、少し抱きしめられて、ちょっとチュっとして、もっと抱きしめて……ってものだよね。
 そうね、いずれ締め過ぎて折れるまで。
 でも、それだけじゃ何だか足りなくて、わたしは哲学が必要、恋人がいるのに恋をしてしまうこともあるかもしれない、それは悲しいかもしれないけど、でもあなたの哲学がないと寂しい、哲学がほしいの
 フィロソフィーね、難しいことを言うね。

 それで、センセイ、私には物語が足りない、物語を食べて、私は生きているのに。センセイ、アマゾンで同じ本を2冊間違えて頼んだりしていないで、何か物語りをしていて。
 こんなのは、どうかな。
「ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるが始まってしまいました。私の中のぐるぐるが、すべて外に流れ出ました。だから私はすっきりしているけど、今度は私の周囲がぐるぐるしている。これはこれで、複雑です。 私はむかし、もっとマトモな見た目をしていました。今のようにヒールを履いてはいなかったし、手も若干短かった。首はすっきりしていて、それに、空はもっと明るかった! 7月のように。 でも、これはこれでひとつ、すっきりしているのです。」
 夏で、雨っぽい夏です。キンキンに冷えた雨が降るといい。と昨日書いたら、今夜は冷たい雨が降っていますね。気まぐれな東京の空。だから昨日は支離滅裂な日記を書きました。それを今夜また書き直しているわけで、少しはまともになったかもしれない、しかしまだ少しく支離滅裂であります。それはきっと、まとまった時間がないから。まとまったフォーマットでないから。書かれていることはきっと同じ。月末には一つ発表物がある予定です。おやすみなさい。