2013年6月11日火曜日

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カフェでする自由研究
 ―難波田史男の創作ノート

 難波田史男(※1941―74。画家。以下、 史男と略)がずっと書き続けていた日記、創作ノートのようなものがあった。まだ読み終えていないが、きっと、描くこととか、日々の事ごと、自分の心のうごきについてなど、日々つらつらと書いてあるのだろう。さいきん、出版されたのだった。
 少し前の人たちは、皆こんなにも書いたのだなと思う。日記をつける習慣は、今は少ないのだろう。身の回りにそんな人、あまりいない。分厚い日記帖を机の片隅か枕元に置いて、寝る前につらつらと書く。日によって量も内容も文体も筆調も異なっていて、年々たまっていく。それが死後だったり、生きている間でもたまたま他者の目に触れて、大事な証拠になったり、本のネタになったり、資料になる。でも大抵の場合は特に人に見られず、何の資料にもならず、ただ、オブジェとしてそこにある。
 ここさいきんでは、まずこうかたかたと、キーを打つ。もっとさいきんだと、タッチパネルに映された文字を打つ。それが直に、何かに発される。
 日記に連なり想起されるのは、ブログとかインターネット上の何がしかであるが、あれは人、特に身近な人びとに見せるために出来ている。見せたくなくともいずれ、見つかってしまうし、下手すると悪用もされる。少しでも有名になってしまえば、下手な事も書けない。違うよ、本当にただ書くために書いているのだよ、そういう人もいるだろうが、書きたいだけならパソコンの中だけで打ち込んでおけばいいじゃないか、しかし長続きしない気がする、僕の場合は少なくとも。
 ちょっと見られることで、書く習慣が続く、文章の組み立ても上手くなる、他者の目線で見る事ができる。そういう、ウェブ上日記のよさがある。だけど、そもそも人に見せるものじゃなかったら、いいじゃないか滅茶苦茶でも。それは置いといて、どこか人の目線が前提として、入ってくる。別にそれはそれでいいじゃないか。文章ってそもそも、伝えるものだから。
 そうしてしぜんと、続いているブログは気の利いた、もしくは気の利かない、雑誌のコラムかエッセイのようになってくる。同じことばかり書いてると、飽きられるし、読者としての自分もまた飽きる。自分で書いた文字だったらけして一定ではないから、違うものに映るかもしれないが、画面上では字体はすべて画一だ。
 そこに創作を混ぜると、「読者」が本気にしてしまうから、あらかじめ見出しに[創作]とか入れたり、文の出だしに[これは創作です……]といった一文を書かなくてはと思う。そうした創作は、恥ずかしさが伴う。さきに断ってからするイタズラのよう。ノリノリで飲み会でこう、手品や話芸を達者にこなす人ならば、これは創作ですよ、つまりウソなのですよ、と前置きして、小説風にあるいは伝記風にふだんの日記を歯切れよく演出できるだろう。けれど今の時世に好き好んでうじうじと、淡々とブログなんか書いている人はもっと、引っ込み思案で、しゃれた受け答えを考え口の中でもそもそ言ううちに、言うタイミングを逸してしまうような人ばかりだろう。どうだろう?
 ところで、ここまでの話の流れは、だいたい筋が通っているだろうか? それともどこかで破綻していますか?
 見回してみても、楽しそうな人はだいたいブログなんかやらない。やっていてもたまに、告知や報告めいたことを書くくらいだろう、一つの発信の媒体として用いる。
 その「ブログ」のブログ性にこだわり、ひとつ世界をというか、小さな何かメディアを作ろうとしているのだから、流れとして、創作、表現? というものにとらわれる、こだわらざるを得ない。この文章がウェブ上にあることをもって分かる通り、別に否定しているわけではない。ただ考えてるだけだが。
 面白いブログは沢山あるし、かんたんに作れるし、キレイなフォーマットで誰でもがうまいこと書かれる。便利。しかしそれは、日刊紙よりも薄いものなので、余程面白くないとすぐに忘れられてしまう。厚さ0㎜、コンドームの一番薄いのよりも薄い、ただの画面に、すぎないのだから。

 やあ逸れてしまった。そもそも史男の創作ノートについて書きたかったのだった。そう感じたのだった。
 ところで、僕は先ほど本屋に行った。さいきんよく思うのだが、本屋に本が多過ぎて恐ろしい。ただ様々な本の背を見つめ中味をめくってみることもそうだが、今どんな本が出て平積みになっているかとか「今月の新刊」とか書評された本のコーナー、本屋によるあるテーマの特集棚、手書きのPOP、出版社のキャンペーン……そういう本屋の動き自体をみることも好きだから、歩いていると目が動きを止めず、気になる本を何度も取って帯を読んだり装丁を眺めたり、目次や書き出し、あとがきや奥付。止まらない。ただでさえ混沌としている頭の中が、さらに攪拌され、もう、何が、何だか、あまりに情報量が多過ぎて、疲れてしまう。
 もっとこう、月に3冊だけ新しい本を特別な棚に入れて、あとは前と同じ品揃え……という本屋があってもよいように思う。もちろんそれでは経営が成り立たないのだろうけれど、そんな気の利いた喫茶店のような店。

 そう、喫茶店はいつも同じで、変わらないからいいというところもある。今いる喫茶ろまんだってそうだ。いつも似たような有線のBGMばかり流れていていつも、いつものおじさんが注文を取りに来て、何かこしらえてくれる。落ち着いた場がいつだってある。数学者たちも夜な夜な集い、問題を解き合っているし、サラリーマンがパソコンを触っている。かつ重を食べたりしながら。
 けれども、そんなやり方では到底通用しないのが本屋だってことは、何となくわかる。
 ろまんでは、今日はじめていつもと違う、窓際ではない奥の薄暗いソファに座っている。そこから逆側の奥を見ると、窓は角の円い横長の四角で、モダンでかっこいい。外には路と酔っ払う学生たち、「ZA WATAMI」の大きな看板などが見える。そうして室内を見ると、窓にそって並んでいるソファと机、おじさんは文庫本を同じ角度で読みつづけ、カップルは横並び、つまりここから見ると縦列に並び男女の顔がかぶっている、奥の男は味噌汁を吸い、女は文庫本。その次のスーツの男はケイタイをいじりながらカツ丼を食い、次の奥の男女3人は予備校かなにか? 紙にペンをもち読んでいる。問題をといている? しかし窓際のカップルの女性の方、猫背具合といい髪の丸っこい具合が、とてもいいと思う。何を読んでいるのだろう。
 ああまた、逸れてしまった。ようは、そういった背後の事情、心況なども含めて、「さいきん、本屋が怖い、本が沢山ありすぎて、情報があまりに多過ぎて」と言いたかったのだった。肉声ではなくウェブ上で。何となくそれは、偽らぬ言葉でもあるし、ひとつ四角形としたら、抽象的な辺を持つ呟きでもあり、見る人もどこか共感したり、新しい何か気持が触発されるかもしれない。と思ったのだった。それがどこか、史男のノートのどこか呟きのような一節に似てやしないか、と思ったのだった。それは創作なのか日記なのか、内向きなのか外向きなのか。
 
 そうして少し用事があってコンビニに行こうとろまんの外に出ると、むわりと暑い外気が包んだ、特にこうゴミの腐臭がほのかに織り混じり、何故かそれは東南アジアのようで、少し懐かしくなるような匂い。空は高く、自転車たちが奥から手前、下り坂を走って来る。また店に戻り目を右、店内の方に戻すと四人の女性が何か旅の計画を話し合っている。あとは雑談近況報告。金額部屋数◯月の三連休、直島、パラグライダー……、よしそうしよう。1人がどっしりとした気風をもって言った。そう、なったようだ。
 午後のあり方、朝のあり方、昼のあり方、夜のそれ。また朝が来て、また昼になり、また夜になり、また酔いつぶれ……、そういう歌があって、そういうことが書きたいと思ったのだった。ひとつの朝、昼、晩、夜。

 空がすこし陰ってきた、雷のようなごろごろいう音もしている。


 わ、と男が大きい声で言う
 人らが少しそっちを見る
 何のことはない
 声がいつも大きい男が、
 わ、
 と言ったにすぎない

 前に歩く、横に歩く、
 少し景色が流れ進む、
 や、
 と人がいる




カット:平木元