2013年2月16日土曜日

石庭元年随想

あの日石庭に、出合った。
石は佇み、白く、島々のように岩があり、すべてが抽象的に、生ける抽象として、そこに佇んでいた。
こんな謎めいたものが、 500年以上も絶えず維持され、世界中の人らが見にやって来るなんて、どうもそれは、最高なんじゃないかと、思った。誰かの作品であるようなのだけど、作品ともなんとも、言えないもの? これほどの存在を作っている人はいまこの国にいないだろう。漠然と河原温やイサムノグチを思ったが、どうなのだろう、年季が違うから。。。勝手でとりとめない意見だけれど、ウォーホルの優しさ空虚さをも超すなにかがあるような気がした。そもそも意見とか感性なんてものの在処すら、否定されるような。

そうやって色ろんな人らに「今年は石庭っす!」「石庭一筋です! もう石庭家です!」と言っている間に、某カミヤマさんが石庭事情に詳しく、シゲモリミレイ(重森美玲・1896-1975・昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家)という人を教えてもらった。石庭を研究している。そうして作庭をしている。かっこいい本を数冊出している。なによりナマエがかっこいい。すごい。石庭――永遠のモダン、と言っているが、成る程、モダンというコトバ、今まであまりしっくりこなかったが、どうも、頷ける気がしてきた。つまり現在進行形なんですね。そうして、ナウのあとさきであるのか、石庭家を名乗るには少なくとも100年以上はいる気がしてきた。

カミヤマさんは夫婦でインスタレーションのようなことをしているのだけど、彼らの試みることは、いつもしっくり来ている。家にある物物を中心に、持って来て、ひたすら空間で、何か吊ったり置いたり、ひたすらしている。現代彫刻と言ってもいいのかもしれない。その動き自体がパフォーマンス的でもある。ことしは何か絵を描くらしいが、その絵も、楽しみです。センスが素晴しい。センスが先攻してカタチに至っていないという見方もあるかもしれないが、それは見る人の勝手だろう。 そのセンスの閃光に、いつもうっとり、しっくりきてしまう。

ここ数年、ランドアートが、いつも気になっている。わかり易い例で言えばクリスト&ジャンヌクロードだろうか。でも最近のちゃんと営業しているものではなく、初期の、街角にドラム缶を無数に積んで路をふさいだような作品。
それや、スパイラル・ジェッティ、もしくは、熱帯雨林を一坪、そのままホワイトキューブに持って来たようなもの。避雷針を立てまくって稲妻を落とす作品。50年代からなんとなくあり、80年くらいに発見される、というか言葉にされる。環境問題が顕在化してきたこととも、つながってくるよう。
まあ、無意味で無償で一時的で、そうしてそのもののまま純粋に、心の中に居続けるような何か、そういうものが作れたらなあ。といつも思っていた。思っている。それは絵でも文章でもイベントでも本でも芝居でも、何でもいい。ただ、あまねく人らに投げかけるようなもの。

そういえばまた別に、ひとつ面白い展示を見た。ある料亭、半世紀ほど前に営業していて、いまはもう閉じてしまった料亭。そこにあった食器や什器、ウチワや扇風機、写真、あらゆるものを積み上げて、祭壇のようにしていた。こうノスタルジックなものはあまり魅かれないけれど、それはまた違った新しい、閃光のようなものがあった。見て、ああ、と思った。セピア色のひかりが、こうも輝いて見えるなんて。ああその手つき。

ええ、だから今年は石庭然なもの元年であり、とりあえずすることを石庭ということにしてしまおうというワケです。