2016年8月24日水曜日

小さな個展








ふと、ジーンズ屋さんに入る。何となく棚を眺める。流行りのかたちはタイトなもののよう、あるいはスタンダードなものばかり。違う、ベルボトムが欲しいんだ、そう思って店員に尋ねるとそんなものはないらしい。だからブーツカットを買った。
買っているときどうも聞き覚えのある音楽が流れていたのが気になる。ソニックユースだ。爽やかな響きをふと思い起こす。店を出ると頭の中でプレイバックする。何かわくわくする。彼らはいま何をしているのだろう。

ふと、時の止まったような場所がある。
遠い町でかれが店をやってた。そこは何の店だったのだろう。小さな軽食屋さんというかカフェというか飲み屋というか、もとはペットショップだったという打ちっぱなしの空間。そこで、小さな個展をした、絵一枚と写真一枚、おしゅしについての新聞一枚。それと何か一行書いた紙。
かれが店を始めたのは一昨年の5月で、かけつけて、看板を描いたものだった。それで店を閉めるからと、またかけつけた。それは1年経った夏だった。早いものだけど、仕方ない。

ゆるやかに自転車で各所をまわる詩人のGさんや、いつか不食の概念をとうとうと語った末にお弁当をくれたAちゃん、店主を慕ってやってくる音楽の人ら、近所の何だか文化的なにおいのする住民たち、全然注文しない顔なじみたち、あるいは通りすがりの観光人。のんびりした人らが夜な夜な集まって、ルツボのようになったり、淡々としたりしたのだろう。そう、今は都民のフリをしている奇人もいた。
行くと午前1時で力つきるから、それより深い時間のことは知らない。きっとあばずれた夜もあったのだろうし、しっとりした夜もあった。でも大体、酔っ払いの果てがひと騒ぎしたのだろう。何だか冬なのに床に寝ていた人もいた。ギターも転がっていた。ピアノがひとりで鳴いた。楽しくて、虚しさもあったし哀しくもあったし、それは寂しい人たちの行き暮れでもあるし、ふつうの人の一日でもあったんだろう。

客がぜんぜんいない時だってある。すると特に時の止まったよう。路ばたは昼間も夜も人通りはほどほどにあって、かれはそれを眺めながら、何か手しごとのようにおつまみや食事をこしらえる。ものの配置を替える。昼寝をする。ボッサ、ジャズ、ロック、サラヴァの音楽、日本の音楽、身近な人の音楽、いろいろな音楽を流しながら。
時にかれはそんな空気に自分で厭気がさして誰かを呼んでは音楽を流させたり、外に出て行って出店をやったり、最後の日々には毎日誰かに演奏させていた。
おもては小さなさっぱりした川が走っていて、それに沿った道に面していて、その店はちょうど大きな道と交差するところにあったから、街角の音楽というイメージがよく合った。出るとすぐに橋だから、店に入りきらずに橋にたむろする人たちも。夏はいい。
そこは居酒屋でもなく、飲み屋でもカフェでもなく、喫茶店でもなかった。そもそも店でもなかったかもしれない。酒を、結局は酒を飽きるまで飲んだ。

思えばやっぱり、時の止まったところがあった。昼下がりにそこへ来てかれが居て、さてビールを飲もうか、タバコに火をつけて、薄暗い店の壁を眺める。そこにはよく分からない色とりどりの絵などが飾ってあって。持ってきたCDなど流して、他愛のないだれかれの話、最近見た芝居の話……。

「鳥が時をつくる」という言葉が古い本を読んでいると出てくるけれど何なのだろうか、おそらくニワトリが朝鳴いて朝の時間をつくるという意味なのだろうか……いぶかっていたのをこの機会に調べてみると、やはりそうだった。ものの本によると「鶏が鳴いて夜明けの時を知らせる」とある。そんなニュアンスが、よく合うような気がした。
こちらにも、時の止まったような店は、ぽつ、ぽつ、とある。友人がやっている飲み屋、喫茶店。時に奇跡のように、時の止まった場が生まれる。見知らぬ多国籍なひとたちが旧い家屋に集う。
けれど結局、しずかな街があまりない。どこかしら騒がしいし、きっと街が広すぎる。それに人が多すぎる。どこへ行っても、何か行儀のいい仕事の続きをしているような人ばかりいる。それはまた疲れてしまう。ああした静けさは、あまり出会わない。それは、どこへ行ってもそうなのだろ、不平を言っても砂の一粒のようなもの。
だからどこへ行けばいいのか。いや、むしろ、どこへも行かない方がいいのかもしれない。けれどきっと、いつまでも落ち着くものでもないんでしょう?

さあさて。