2017年11月21日火曜日

shadows rains

左が
ふるえる、右から
涙がでる。
思うに最近、
整合性がない。それは
もとからだったか何か、
左右で見ている景色もずれている気がする。
だいたい
頭が気づくとかしいでいる。働いた
日々が10年と少し続いて、少し
本当にかしいできたらしい。かしいでいる方が
首に馴染んでいる。気づくと相当凝っている。だいたい朝は頭痛がする。
ようするにバランスを壊しかけている。季節のもの? 気圧のせい?


ところで
あの女の子たちは、どうしてこう、人間味を失うのか。スマートフォンばかりいじっている。写真で男と会っている。男も写真で会っているけれど、男が多数で女にしてみたら選び放題。って女をヒハンするってわけじゃないし。ってゆうか人間味って何なのか。そんなこと知ったこっちゃないんだろう。けれど、私はそれをじくじくと考えつづけている。だいたいこの画面の社会が出来てからというものの、人は日に日に人間味を無くしてきている。80年代の日本画に、背を向ける人たちを描いた鬱々とした、けれど妙に明るくて切ない画があったのを思うけれど、それよりもっと何だか殺伐だ。ところで自然ってなに。雲海が見れるの? それはインスタ映えするの? って写真のために生きているのか彼らは。写真を愛し、捨てられなかった紙焼きを集めたかの人は、そんな世を面白がるのか哀しむのか。
それはさておき、今の世も人と人とは出会ったり別れたりを繰り返しているみたい、いつだってずっとだ。

だから
私は色々なひとと寝たけれど、結局誰とも繋がっていないみたい。だんだんと恋のような感情は薄すれ果てて。
それで、
来もしない人をカフェで待ちつづけている。本を読みつづけているのは読んでいるフリだ。
隣に立っている女性もそうなのだろう。赤いワインを飲みながら、何か携帯で店の壁の写真を撮ったり、ハムを切り分けたり、時おり、飲み物を頼みにいく時に私の方に目を向ける、席を取られないように見ていて下さいというのだろう。少し前に一度、そう言って頼まれた。見なくとも平気だと思うけれど。私はふんわり笑ってうなづいた。
そうしているうちに二人とも酔いが進んできたのか、段々と動きが操り人形のように、あやしくなってくる。フォークを落としたりしている。けれど別に、ここで打ち解けて一杯、語り合ったり、するというわけでもない。ただ一人が一人ずつ、内向していく。
彼女が待っている人は、どのような人だったのか、気の置けない友だちだろうか、何か、気候やあれこれ他愛のない世間話を出来るような。
私が待っている人は、きっと、気のあうひとで、それで、からだを重ねることの出来るひとだったのだろう。そんな人は待っていても来ない。待っているから来ないのかもしれない。忘れたころに、やってくるのかも。

そんな
日々が数週間続いている。私もあの人もお互いに、操り人形のようになりながら、スウと店を出て、10時半か11時過ぎ、夜の町に歩いていく、影絵を落としていく。その先でいつもの店で一杯だけ飲んだり、あるいは一人ちょっと散歩しながら帰る帰り道。
彼女は
幼いころのことを考えている、こう、一人で何か待たされていたときの記憶、それが何か分からないけど、病院のように無機質なところではなくて、むしろ、レストランのようなところ。なじみ深いところで、お店のひとも優しかった気がする。けれど、お母さんのような人は、いつまでも来なかった。きっと1時間や2時間だったのだけど、小さい身には、それが永遠のようにも感じられた。だから、待ちきれなくなって店を出て、歩いていった。家まで。土手を伝っていく道は、いつもお母さんの自転車の後にのって行っていたから、それを自分の足で歩いていく。夕暮れのオレンジ色っぽい光のなかで、歩いていくうちに陽が暮れてもおかしくないけれど、記憶のなかではずっとオレンジ色だった。それをそうして、丁度夜になったころに、お家についている。心配したお母さんやお父さんが、家で待っていた。色々なところに電話をかけたりしていたらしい。それからどうしたのかはおぼえていない。けれど夜道、ひとりで歩いているとフトそのときを思い出す。きっと、その頃と大差ないのだな、内気で、人見知りをする。人と目が合うととりあえずニコニコしてみる。

私は一方で
添い寝を繰り返していた。ソフレ、というらしい。セックスではなく、ソイネをするフレンドとして、日々かわり数人の女性と、添い寝をしていた。それもそろそろ終わろうとしていた。
それでどうして行為にいたらないのか、不思議に思う。人とつながるのが恐いか。その先に別れがあるのにウンザリしているのか。関係することに疲れたのか、あるいは自信を無くしたのか単に鬱しているのか。それで、いつまでも来もしない人を待っているのがいいのか。こんなものでは、大人とは言えないだろう。大人、というのは、恋人、と同じで、誰かが決めたものなのだとしても。月がきれいだ、そんなことばかり機械のように一人呟きながら、ときにホロよいで、歩いている。

すると
そんなふたりが道でバッタリ合う。
会ってもお互いにシャイなので、なかなか挨拶するにもいたらない。
かれこれ5回は、路ばたで会っている。気づかずスレ違うことはそれ以上に。気づくと心の中では会釈をしている。彼女の方はどうだったのか。あら、ごきげんよう。と心の中で言っていたのかもしれない。もしかしたら、目を合わせて、いい加減もう。と言っていることもありうる。けれどそもそも、意識にすらのぼっていなかったかもしれない。何となく見覚えのある人、かなあ……と思うほどで。
それでいつもの店で、二人は影絵のようになっている。食器の鳴る音、グラスがあたる音、
グイドー!(8 1/2)あるいは
銭湯ー!(シャラポア野口)
そんな酔っ払いのうるさい喋り声、そうでなくともうるさい女たちの喋り声。男だってうるさい。高尾山帰りの熟年夫婦が若ものにフレンドリーぶる。

そう
余裕はどこへ行った? 
雑踏にまぎれてタバコを吸う余裕は。
風が吹いて
風にご飯の味をかいでお腹を空かす余裕は。居眠りの
上司のひたいに猫を乗せる余裕は。

そうして
画面を見ているとまた右から涙が出てくる。文字を大きくしたって同じだ。

この話をしている北川さんの短気は酒を飲んでるともっと出てきていて、その時にしたことをまた酔っ払って話して、人間関係をひとつ壊した。私はその関係をとても大事だと思っていた。向こうにとっては、どうなのだろう。今でも哀しいけれど、それはどこか私の、人を人と思わないところを描き出していたのだろう。遅かれ早かれ、いずれ薄れる関係だったのかもしれない。かもしれない、なんて言うけどかもしれないなんて本当はない。心は切り開いてみないと分かりやしないけれど、心なんて切り開かれない。それを待つ前に、次のところへ行ってしまう。こんなふうに書かれることは、心にとっても、嬉しいことじゃないだろう。
もう詰んでるよ、そんな声がいつからか聞える、あたまの中で、声というか、ひとつの言葉として響く。こだまする。

カウリスマキの映画の底流にあるのは、そこはかとない諧謔だ。あらゆるどちらかというと貧乏な表現者あるいは生活者を、諧謔の末に、それでも楽しいね、とうたう乾いたユーモア。打ち込んだあと
フォークロア、と北川さんはひとり呟く。

見つめる女と、見られる男。けれども視線はいつまでもスレ違う。
そんなさなかに影が立つ。







2017年11月16日木曜日

池松

音楽について。音楽についてを何か書こうと思った。よく見に行っているからだ。それで、行った記を書き連ねていこうと思った。
ところがどうだろう。ここ2ヶ月程は色々とあくせくしていたせいか何なのか、仕事とものづくりをするほかはほぼ池間由布子が出るライブにしか行っていない。といっても10回近く見ている気がする。平均すると週一回だ。だから色んな人とちゃんと会っていなかった。
池間、池間、と書くとしつこいので、ここからは池松さんという架空の人のライブを架空に見に行っていることにする。私というのは北川さんのことであって、つまり間違いなくフィクションである。文というもの、つくりられたものが全てフィクションであるという前提が無くても間違いなくフィクションであり、実際はタラ・ジェイン・オニールのライブにも行っている。なんかごく小さなバーで延々とグルーヴを続けながら声とギターが乗るマヘルも、久しぶりに見た。シンラのイベントでDAMON & NAOMIも見た。素晴しかった。渋さも生活の一部として見ている。

さて、私は今日も架空に行った。架空では時間の流れ方がゆっくりだ。時々、早すぎて何が起きたのかよく分からないこともあるけれど、それだからあまり記憶に残っていない。時々なにかのきっかけで急に思い出す、肌が思い出す。あるいは、全く時が止まっているようなこともある。お客さんが少ないときは特にそうだ。それはそれで何も起きていないから印象のなかでは一瞬だけれど、のちに思い出すとじっくりした時間だったように思われる。
ところで実際に時を止められるとどう感じるのだろうか。印象が飛び飛びなのに、確実に時間は経っていると。激しいトリップに通じる。しかし忙しく過ごしていると、そんなものかもしれない。色々なことを忘れる。忘れるからいいというものもあるけど、忘れてはいけないものも忘れている。

池松さんのうたは、絵画みたいである。モチーフが、情景が移ろう。心象と具象、内省と発話が入り混じる。描きながら変える。ペインティングというよりドローイングか、あるいは鉛筆画、シンプルな色数、しかし諧調は繊細で深く、そんな声。ギターは木に硬質の弦が響いている。
「明るい窓」という曲は数回しか聞いたことがない。アルバムのタイトルにしているのにアルバムに入っていないというのはいうのは何だか気持ちがいい。明るい窓を見つけた、という曲。朝の闇に光る明るい窓であり、昼の陽のなかにある明るい窓で、そうした矩形に色々な時間が行き交う。ことばが旋律に刻まれてく。
あるいは踏切のうた。総武線が事故で止まった日の小岩でのライブのときにうたっていた。何か、日々の、きわのようなところを描いている。その踏切の音だけは、音だけは、聞いては、いけない、と文字にすると怖い。景色が止まった、人たちが止まった。誰が見ている景色だろうか。池松さんだろうか。やわらかく、切ない感じ。
ゆっくりと、ドリップしているような感じがする。
もう少し書こうと思うのだけれど、いっときにそうすぐに出てこない。
そんなうたが折々に、歩いていると、ふとあたまに繰り返される。夜に、朝に。

池松さんがうたうと何か空気が静寂になる気がする。その空気にも耳を立てているのだろう。四方にヒゲを伸ばした青年が池松さんに、池松さんは 思いのままに、心のままにうたっているのですか、そうであるのだろうけれど、どこか、醒めた耳というか、うたってギターをひいて、加えて何かあるような気がしますよね、といったことを話していた。たしかにそうなのだろう、醒めて俯瞰する耳や目があるのだろう、けれどそれは、ふつうのことかな。池松はうーんと言っていた。
その一方でシャラポア野口は「銭湯ー!!!」などとギターの弦が切れるまでノドを枯らして叫び倒している。空間の密度を限界まで詰めようとしている。同じ会場でやっても、この違いは何なのだろうか。彼のとる間は、狂気じみた漫才のようだ。けれどそれはそれで、空気を聞く耳があるのだろう。というか皆そうなのかな。
お客を見ていると、野口のお客はゲラゲラ笑って野口を遠巻きに見ているけれど、池松のお客は熱心に聞き入るひとが多い気がする。それが静かなのだろうか。
お互いによく知らないのに、というかほぼ違うのに勝手に比較されては困るだろう。けれどこれは架空の話である。

職場で夜に人が少ないからパソコンでそんな池松さんのうたを流していると、北川さんがヘンな曲ながしているから・・・と、いぶかられる。何がヘンなのか分からないのだけど、傍目で聞いたらそれは、ある種の幽霊みたいな感じがするのかもしれない。けれど表現は闇から出てくるものだし、とても普通だと思うけれど。西丸震哉の随筆にはふつうにユウレイみたいな話が出てくるが、そんなような普通かもしれない。山とお化けと自然界か。あるいは、畑に大根を抜きに出てくるタコのハナシ。ヘンとか普通とか言い出すときりがないが、そんなことを考えるとどんどん視野を狭めるからよろしくはないと、ウォーホルも言っている。

夜に急いで仕事を片付けて小さな架空のライブハウスへ行く。急ぎ足に歩いていると雲間に満月が出ている。開演前に着いたから表でタバコを一本すう。ちょうどドアから、一服しに池松さんが出てきてニヤと笑う。面々と豪放に笑う。見ていると同じ人が幾人も、いつもきているようだ。私もさいきんその一人なのかもしれないが。角刈りの男がいて、パーマの男がいて、宇宙的な男がいる。ほかにもややハゲた人などもいる。何となくたむろし、酒を飲み池松さんと言葉をかわす。

星になったのさ、星に、なったのさ。星になったのさ。と池間さんが伸びやかに歌ったのがアタマに繰り返し口をつく。

次は、お客である彼らにインタビューをしていこうと思う。架空の。
















2017年10月4日水曜日

めぬけと抒情

ことばはいつも嘘つきで、こころはいつも難しくて、うつくしければいいわけじゃなく、
ふぅ、と、息を吐くように出るものがいいと思う。 あ、雨がおちたよ、影が立った、風が止んだ。そんなこと。
混沌と散漫のなかにいる人は、そう思ったって、そこにいるって言わないだろう。じゃあ、どこにいるのか。ああ、ああ、風がふく。と思えば洗濯機のうなる音だった。

「パターソン」を見て、音楽だと思った。あの作品自体が、音楽そのものだと。あるいは一編の詩。音楽のよう、とか、詩的、とかではなくて、あれそのものがひとつ。そんなことを思っていた。あれは何か、生きることだし、歩くことで、作ること。それに、何かひとつの人間模様の類型も描いている。作り手の闇というのか。「GIMME DANGER」もまた深みがあった。それもまたイギーの詩なのだろうと、書いてある文がユリイカにあった。ジャームッシュの優しみ。

それで、音楽のようというのは、文章にも、そういうものがある。音楽を感じさせるというより、如実に音楽のように、ある「時間」をつくろうとするもの。

と、新しい「めぬけ」が出来て思いました。音楽の中でも、長尺のジャムでなく現代音楽でもマントラでもなくて、生な弾き語りのような、そんな表現が集まった気がします。「ささやかな、俺たちの、フォークです」まだ読んでなく、ドアを叩くかの人はそう言ってくれたけれど、どうして的を得ているね。そう、ローカルで、フォーク、フリーフォークみたいなものかもしれない。
風の又サニーをはじめ、京都・東京、音楽界隈の人が多いからかもしれません。もちろん美術の人も、出版の人も、どれでもない人も色々と。23名、随分濃い人たちが集まりました。




まずは10/5〜8、寺田倉庫でのTOKYO ART BOOK FAIR、ロゴをつくってくれた李漢強さんのブースで売っていただきます。 A-c-14 Leekankyoさん寺本愛さんブースです。リーさんの作品も買って、めぬけも買って下さい。





ええと、詳細はまた追って。
何にせよ今回は前回の倍! 
時間かかった分気合い入ってますので、面白いモノのはずです!
ホームページも出来る予定です。

関係者の皆様、今週末〜来週にかけてご連絡しますので、宜しくお願いいたします。

2017年9月3日日曜日

here comes rain

音楽は時間を発生させるという。
菊地成孔と名越康文のトークイベント(8月、晴れたら空に豆まいて)で、場が暖まってきた渦中に名越さんが、こう、技術が発展してきてAIも凄い時代に、音楽にしか出来ないことはあるのか、とヌケヌケと菊地さんに聞いていて、それに菊地さんがとつとつと応じる、主観的、精神的なカイロス時間、それにイーオン時間があるという、音楽が発生させる時間はイーオン時間だという。難しい論理はよく言葉にできないのだけど、新しい時間を発生させる作用。たとえばジャズの転調、爆発的なインプロバイズ、聞く人はそこにもってかれちゃう、そんなものがそうなのかなあと……分かるような、分からぬような理解をした。

それで思うのがDCPRGの音楽だったりするのだけど、もっと思ったのは月初に見た渋さ知らズだったりした。だいたい、生活に渋さみたいなもの、というか渋さは必要である。あれは何なのか。長いこと見ているけれど、どうしてこうも飽きないのか。いっときいっときを、大事にしているからなのかなあ。生成し続ける音楽があって、人びとのコンディションやモチベーション、気分で移り変わって落ちつきが無い。一方で、落ちつきが無いというその中に落ち着く気もまたする。そこに色々なイメージが浮かぶ、時に激しい展開にからだが動く。いつも思うがピットインで前の方に座ってじっと聞いている人たちはアレは楽しいのだろうか。立った方がいいんじゃないか。酒が進んで止まない。そこにある時間はたしかに、言葉にできない、よく分からない。プレイヤーでないからプレイヤーの感じは分からないが、きっと彼らもまたまきこまれているのではないか。それはきっと祭りの熱狂に似ていて。

また一つ遡ると渋さの絵描きのアオケン(青山健一)さんの個展がその先月半ばにあって The Space Baa を久しぶりに見てそこでも何か持っていかれた気がする。音楽も当然、きれている。トランペットその他を器用に扱う辰巳さんが、途中からアイフォンを弾き出す。目を瞑るとエレキギターにしか聞こえない。宇宙っぽい。
音楽と一緒に絵があって、描いては消して、描いては消して、それをプロジェクションで壁に大写し、こうした技を長年やっているような絵描きは、そういないだろうと思う。自分で描く一コマ一コマを撮影してストップモーションアニメを作るくらいの人。根気というか何というか、呼吸するように描き続けられるのだろう、一筋縄でいくものではないのだろうけど。思えばそれは10年くらい前、渋さがワークショップをやるというので美術のところにいってみたところ、アオケンさんがすっ、すっ、と刷毛で流麗な線を描き出すのにとても惹かれたことがあった。その刷毛は几帳面に調えられていて、太くよどみのない線をきれいにつかって、円や線、迷い無く色々な生きものを描き出していく。引かれたばかりの絵具の鮮やかさ。

そうやって考えていると、もう10年以上渋さ界隈のライブを見ている。池間由布子さんも同じライブに見に行っていたと言っていた。先日また小岩のブッシュバッシュで哲夫が、かの人と一緒にライブをやっていた。そうだまた弾き語りだ。哲夫についてはもうあまり褒めても仕方ないから書かないけれど、あの歌いながら作っていくような感じは面白いなといつも思う。その日は何だか、しっとりしていた。つばさを下さい、なんて久しぶりに聞いたけれどいい歌だよね。エレキギターなどでもっと激しくやるのも好きだけれど、それは季節まかせ、風まかせなのだろう。

池間さんはあー、って歌いながら始めていた。長いことあー、って言いながらコードを弾いていた。あれは何なのか。タラ・ジェイン・オニールみたいって思う。見たことは無いけど。開かれていくような時間、空間。
昼下がりの、不思議な場だ。あとで気づいたのは、客は一人をのぞいて、一人で来ている男ばかりで、それも10人足らずか。夏の終りの物悲しさを体現していた。
すてきなこの人は快活でどこか子どもみたいな、何なのだろうか、落ち着いた、けれど、仄暗い、ひそやかな哀しみを秘めている。けれど、何かになろうって気はない。大事なことに、笑いもある。笑いといっても、日常的な、はにかむような微笑み。詩が立っている、すこし歩いて、しぜんと軽く踊っている。

鉄割の寸劇で見てから気になっていたフト見つけた「しゅあろあろ」を何度も聞いていた。いくらでも聞きたい音はそんなにない。それは声色かもしれない。憧れた音やスカッとする歌、気分に馴染む音色は沢山あるけれど、いつでも聞きたいものはそう沢山ない。なにか、こういうと不思議だけれど、ふつうなもの、呼吸しているもの。妙だけどしぜんとどこか、懐かしいもの。マンガや本にもそうしたものはある。
ライブを見たら、もっと見てみたいと思う。思うと、通い続けてしまう。
福々しいかおをしている。

終わって飲んでいると哲夫が、こいつは散漫だから、という。たしかに散漫だ。
別の日、会社の先輩が、あなたはラジオのように色々なものをキャッチするから、という。
ラジオのように散漫なのだろう。

池間さんからコーヒーショップリーキのこと、という冊子を買った。後日、といううちにああ秋になってしまったのだけどそこに入っているDVDをようやく見ていると、何度か聞いたことのある明るい窓、が耳に染み入る。ブルーズな感じ。しかし、詩がいい、てらいがないというのか。明るい窓というモチーフは暗くもあって、明るくもあって、とてもいいと思う。この季節にいい。
この画は、ほんとうに一人でやっているのがまたいいのだろうな。いるのはカメラだけ。自由な、内向的なうた。と思えばオバさんとテレビがいたりして。



(つづく)



earth + gallery アオケンさんの個展にて Space Baa 




無題



2017年7月3日月曜日

音と日々 5、6月

芝居や映画、興が乗ったり一緒に行く人がいると通い出すが長続きせず、結局よく見ているのは弾き語りのライブである。それをフリーフォーク的というのか、それとも単にフォークというのか、人に伝わる言葉がよくわからないが、スタイルとしては弾き語りなのだろう。ひとりが、楽器を弾きながら歌う。主にギター。又サニーやシャラポア野口、知り合いにもそれをやる人が多い。
それを仕事終り、適当なときに行ってビール飲みながら見る。平均して週一回は見ている。

先週、晴れたら空に豆まいて、で、のろしレコードを見る。
それは3年前か、下北沢の地下の薄暗い店でやっていたのを見たのが最初だった。九龍ジョーさんが行くから行ったのだった。この文章も九龍さんが書いてみたら、と言ったのがきっかけで書いている。かといって何か大それたものを書こうというわけでもない。とりあえずだらだら書く。ブログだから見直して気になったらどんどん直す。
前に見たのが昨年末のセブンスフロア。季節も場所も違う。床に座るのと、あの暗めの感じがはまっているのか、音の伝わり方か、いや何だろうかな、とても深まっている気がした。聴きたかった合唱の河を渡る、は聞けなかったけれど、何だか色々腑に落ちた。あれは潔いというかシンプルな構成がものを言ったんだろうか。
夜久一さんが凄かった。死にたいと何かすっ、と歌っていてそれもまた腑に落ちる。ああいうことを言って馴染んでいるのは凄いと思う。つまびくギター、骨太な声。ブルーズなのだろうけれど、ブルーズという語の泥臭さを一直線に行きながらも泥臭くない。どこか瀟酒にも聞こえる。ジョニーキャッシュとかディラン、そうした音楽を思うけれど、何か鋭い刃物のようなところがある。そう死ぬ前のキャッシュがジョンフルシアンテとやっている曲があるけど、何かそれをフト思う。
折坂さんや松井さんもよかった。すごい過去のような、あるいは未来のような、詩情、、時間がもうよくわからない。ここでは夜久さんのことを思う。たしか年下で、よく見ると優男なのだけど、牛のような感じがする。のらりくらりとした凄みがある。

思えばブッシュバッシュや日の出町視聴室、あと小台ブリュッケ(池間布由子)。そんなところで弾き語りをよく聞いている最近。やっぱりうつ向きがちなニックドレイクみたいなものは、好きなのだろう。それはシンプルだからこそ豊かなあれこれをはらむのだろうか。ギターと人の声、アンプ、チューニングの聞き慣れた試しの音、指が弦にこすれるヘンな音、ループ。
フィーバーで見た柴田聡子やイ・ラン。ピットインで見たミラクルなショロウクラブ。そうしたものも素晴しかったけれど、何か人と酒を飲みながら話しながら、話の中身を考えながら聞く歌もまた面白く。あるいは演者とのやりとり、ヴェルベットの懐かしい歌。
この言葉は苦手だけど人に接近している気がするのかな、でも実際は思えば思うほど実像と遠ざかり空転するところはある。思わないと何かバッタリ会う。って恋の話みたいだ。

そういえばこの間ある作家の個展に行ったらタロット占いをやっていた。それはタロットになぞらえた新作シリーズだったからなのだけど。そうして占ってもらったら何かエラい大変なことになっていて、今年は大変すぎますとのこと。たしかにバタバタしている。大きなものに流されながら静観すべきと言われたけれど、何に流されているのか自分から流れているのか、よくわからないよね。

そうして今日は人に誘われ表参道のクラブみたいなところで満場の思い出野郎Aチーム。皆うまくて熱くて、そうボーカルのあのしゃがれ声は、いつか見た行方知レズなみに胸に届くものがあった。なんて言っていたっけ? 雨が降る、傘ぱくられたからビールを買う、そんなうた……それも又いい。そうだあと日常のリズム。内容はブルージーだ。
人びとはソウルフルなのか、満員電車みたいななか、近寄ると大体こちらを一度見る。目を合わせてくる。誰。
ギターのサイトウさんという人に似たウサギの指人形を友人はずっといじっていて、指人形って何かいいよなと思う。作ろうか。

気づくのは自分は地声で届くような密やかなところばかり行っている。その方がしぜんと、伸びやかになるんじゃないかな。ええと、気兼ねしないというか。
そうして音のある空間について考えている。
音は声は、不思議だ。


(つづく)





写真:過日の哲夫と過日の満場

2017年1月31日火曜日

告知など

かれこれもう10年経って、なんて、初めて思うのだけど、かれこれ10年になる知り合いが出てきていて、次の10年はもっと短いのだろうな、と思ったり、いや長くありたいなあ、と思ったり、10年ぶりに読み返した「肌ざわり」にゆれつづける文体を見てやっぱりいいなあと思ったり、そうしたらフト同い年に出版された串田孫一の小説に出会ったり。

さてさいきん「新宿眼科画廊新聞」というしんぶんが驚くほど突然、素敵な案配で毎月出ています。僕もだいたい毎月印象による書評を書いているので、よかったら眼科画廊でもらって見てみて下さい。面白いひとがたくさんいます。





とあとこんなライブと展示のイベントがあって久しぶりに、たぶん当分ないだろう自分の絵が出ていたりするので、よければお運び下さい。詳細→http://tetoka.jp/archives/4075




ささやかな告知でした。
よろしくどうぞ。


2017年1月9日月曜日

「創作と画 めぬけ vol.1」について

「めぬけ」は東京や京都に縁深い、音楽やアート、それと出版などに携わる30前後の人びとを中心とした、日々の創作をつづる同人誌です。
そもそもは何か書きたいけれど、〆切がないと書かないよな……そんなわけで3人ではじめたもの。でもやるからには出来るかぎり面白く、季刊くらいで続けたいと思っています。
毎回、色々な人に参加いただければ嬉しいです。

年末に出来たvol.1、お店にて取り扱っていただいています。随時更新していきます。

・取扱い(3月末日更新)
新宿眼科画廊
コ本や(王子)
ブックギャラリーポポタム(目白)
新しい人(高円寺)
6次元(荻窪)
本屋 Title(荻窪)
バサラブックス(吉祥寺)
古書ビビビ(下北沢)
B&B(下北沢)
SUNNY BOY BOOKS(学芸大)
本と紙の店 ホムホム(京都・鴨川五条)
誠光社(京都・河原町丸太町)
100000tアローントコ(京都・京都市役所西側)
Book Union新宿

ありがとうございます。
定価は600円+税。
表紙はほぼ全部違うので、見かけたらお手に取ってみて下さい。

東西問わずこれから色々なお店で扱っていただけると嬉しいですが、ひとまず動き始めたところです。
もしご興味あれば僕まで連絡下さいませ。送ります。



ロゴはLee Kan Kyoさん。




これは参加者プロフィールです。

どうぞよろしく。