2018年1月4日木曜日

年 初

年明け前なんてことない女と男は、お互いにどうしていいか分からず、同じ部屋に帰ってきてしまった。そこにはたくさんの声があった。音楽の声、映画の声、本の声、ほのかに虫の声、路ばたさんざめく人の声、車の声。
そこに立ち込めること1、2、3日間。年越しに何かをするのは無粋だ、かといって何もしないのも暇だ、と感じながら普段通りの暇な明け暮れを繰り返した。男は東のベッドに寝てユーチューブで同じお笑いを見返して、女は西のベッドに寝て日がな空を見つめ太陽と月が明け暮れするのを眺めていた。本当は手元のスマホをいじっていた。
けれど年末の誘いには勝てず、一度か二度は特番などをテレビで見ている。気づいたら1時間2時間、とうとうと見入っている。そんな時だけ二人は水面から顔を出し、照れくさそうに、ニヒリスティックに微笑む。かたわらには発泡酒とポン酢。

そのまま水面でばしゃばしゃやっている。相手の背中にばしゃばしゃと水をかけたり、時に組み倒しそうになるけれどそうではない、女は軽くいなしている。男も女と向き合いたいわけでもない。二人の目線は合わない。薄やみがかかる川、ゆったりと広がる空のもと、波紋だけが淡く広がっている。なぜだか彼の周りだけ妙に円く円く波紋が立つのがふしぎで、見とれてしまった。
遠くではすいすいと滑るようにしている鴨たち。
その先でカラスがやんやんやんやんと騒ぎまわっている。
ハトがハトハトと歩き回っている。
夜が明ける。





夜が明けると、またいつもの架空の小屋にいた。小屋では音楽をしている。ギターの弦をつまびく音こする音、ギターの木の音、肉声、ことば、そうしたものがマイクで増幅されて空間にひろがったりしている。そんな様子を不思議に眺めている。不思議なのは、なぜ眺め続けていられるのかということ。それはどうも、同じ人と同じ話をすることにも似ている。同じ話やりとりであっても空気も違えば天気も違う、きている服もまた違うだろう。人ではないし河でもないけど、風が同じでも波は絶え間なく違う。それに、うたうことは身体を使った表現であるから覚悟が違う。話を過去に戻すと、音楽は時間をつくる。

ある室には悪霊がいると誰かがいつか言っていたけれど、そんなライブハウスもある。どうも空気が濃密で逃げず、演者にすべて集中してしまう。特に冬は暖房するからそうなんだろうか。バンドならまだしも弾き語りをしているとその人に集中してしまうから、酒を飲んでもぬける先がない。それはそれでいいのだけれど、もう少し色々な気配を感じたり、すこし曲を横目に喋ったりしたくもある。スタジオではないし、静謐な語り芝居というわけでもないし。一番後ろから見ていると、暗闇で微動だにしないお客が幽霊みたいだ。

室には色々とあって、大体がもう少しヌケがあって空気が循環している。終わればそこが酒場になるようなところもある。酒場ではUがひたすらホッピーをお代わりしている。私は引っ越して遠ざかってしまったけれど、時おりそこで三人のうちの誰かと会っていた。
3人とは、男と女と、男とも女ともつかない人だ。男が先ほど述べたUで、彼は古本やレコードにのめりこみ日々狂ったように喜劇のように奔走しているように見えるミュージシャン。女はAといって、本の仕事をして、酒を飲んで、日々暮らしている。男とも女ともつかないのはBといって、私と大陸に遊んだのちは少し落ち着いて、以前いた酒場でまた働いているようだ。さいきんはよくポテトサラダを作っている。

私の家はいまでは街中の細長いビルの4階にある。
階下は民泊をしている。誰もいない日が多いけれど、気づくと3、4人の青年が部屋を出るところだったり、ヨーロッパの妙齢のカップルが階段の踊り場で喋ったりしている。土地柄か、鳥はあまりいない、猫もない。

思えば昨年見てぐばっときた二本の映画はどちらも、詩の話だった。エクストリームで象徴的な話と、じつに淡々とした街の日常の話。超私的な語りと、あくまで類型的な話。ロマンティックでマジカルリアリズムな音楽と、意外にも硬質でアンビエントな音楽。いずれもが詩人の話であるのだけど、その映画そのものが、詩そのもののように、立っている。詩とは何なのだろうか。と、そこにあるのが詩であると、とりとめのない逡巡にいくけども、表現とは生きていることであるといったらそれに通じるのだろうか。

さて、何の話をしようか

そろり、そろりと、うたったり。