2023年5月6日土曜日

窓から(3)

Am500。

鳥の声がたくさんしている。

チチュチチュというのが一番近く、左手の方から。

すこし遠くの、カァというのがたまに混ざる。これはカラスだろう。

あと色々としている。

窓の外には、黄緑色の花をつける桜があって、もう葉桜になっている。

風がいい。

と思ったら風がやんだ。すると鳥の声もやむ。なぜだろう。


葉桜のとなりには棕梠、というのかなぜだかこの敷地にずいぶん植っている高い木がある。その右にはねじねじとした、たくましい感じの木。また棕梠。

部屋の中にも植木がいくつかあって、外の木を見たり、中の木を見たりしている。

その中間に画面があり、その画面に文字を打ち込んでいる。


今日は人が多くきて、荷物をとにかく箱詰めしていた。荷物というか、物。暮らしの周りにすべてある、物。旅であれば荷物といって荷造りというが、それとしていることは変わらないけれど、家なので物という。本やCD、小物、ノート、文房具、資料(色々なものをとりあえずそういう)。食器や家具、服、小物。箱が無数にある。


無数の箱を、多くきた人が、詰めてくれている。長いつきあいの、それとこの家にもつきあいのある人たちで、手を貸してもらっていた。そうして酒をようよう飲んで、雑魚寝のうちに私は起きてこう外をみている。


また風がふく。どこかでアラームの電子音が鳴り続けているのは何なのだろう。誰かの目覚ましだろうか。 

2023年4月16日日曜日

坂口恭平日記を見た日記

熊本へ、「坂口恭平日記」へいった。

あのパステル画を見ておくのは大切だと思った。

気づくと3時間、4時間はえんえんと見ていたのだけど、

見ているうちに、色々と考えながら触れていたのが、感じるだけになっていった気がする。考えるのがどうでもよくなっていって、何か透明な描き手の視点だけが感じられるような、気がした。

こう長いこと見ていられるというだけでも、すごいと思うのだけど、

「すごい」と言ってしまうことに最近抵抗を覚えている。すごいの一語で思考停止しているんじゃないかと。

だから何となく、感じたことを書いておこうと思った。

とりあえず手を動かしてみようかと。ほんとうは絵や現場の写真なんかを交えた方が、

読む人は分かりやすいのだろうけど、一旦は面倒なのでしない。


「大気とか、空気の動きを見ようとしている」

そんな話がどこかに書いてあった。空気の流れだったり、大気の動きだったり。

空気の粒子と、パステルの粒子はきっと相性がよく、無造作な感じに足されている線、すこし試すように地にひかれた跡とか、そうしたものが妙に目に残る。

その日のその時の光。季節とか、天気とか、気分とか、作家の中で色々な要素が行ったり来たりして、けれどとても透明な感じで絵になっていく。透明な感じ、を感じる。感じを感じていて、どうしても、ピュアな目で見れない。何か、仕掛けているのではないかな、と感じてしまう。

というか、その透明さ、我の薄さ、それ自体が作家の作意なのかなと思う。

そんなことを考えてしまうのも自分の悪癖かもしれないと疑う。感じるものを感じるままに感じたらいいのじゃないとも思うけど、それより楽しい楽しみ方が、絵にはきっとあって。

透明というものの時に乱れている時もあって、以前に描いていた抽象とか、時期ごとに揺らいで生まれてくる。人物が出てくる時に、そんな心の動きが出てくる。

そう「展覧会」ではなく「日記」だから、絵の「良し悪し」とは話が違う。



抽象、具象。誰がそもそも言った言葉だったか、忘れたけれど、絵というのはそもそもが抽象であるという前提もある。紙と塗料と手と、そうしたもので、本当はそこになかった視界が、紙の上に描かれ直していく。それにより生まれる抽象物。

でもそれって、今文字を打っているこの画面もそうだな。画面が開いて、そこに文字が勝手にうかんできて、高度なワープロソフトがいい具合に変換をしてくれる。

抽象でないのは、風景ぐらいか。

突然、「風景」が目の前に立ち現れてきた。

そういったことを作家は書いていたけれど、そんな時は人にたまに訪れるのかもしれない。どうだろう。そう一般化みたいに書いてみるけれど、作家がそう言うというのは、作家のそれまでの活動とか作ってきたもの、それまで考えてきた時間などが経ったうえで、個別の体験として「風景が立ち現れてきた」わけだから、それはあまねく「人」に訪れるものとは違う。

アイフォンで撮った写真を、手で現像しているような……

そう作家は話していたけれど、写真はそうだな、パステルと相性がいいのだろう。光の粒子ひとつひとつを、パステルの粒子に置き換えていって、描きだしていく。

「P0000」と作品すべてに書いてあって、Pは何だろう、日記のページなのか、それか別のアルファベットのものもあるのか、などと気にしながら見ていたけれど、係の人にきいてみると「パステル」のPだという。ほかにも意味はあるのかもしれないけれど、この話はそう広がるものでもないんだろう。



あと「日記」ということに、どうも納得がいかない。いや、この展覧会はいいのだけど、最近どうも「日記」をよしとする流れが身近にある。日記をzineにして読ませたりする。○○○○○日記という本とか、いわゆるコンテンツに多くある。昔から、そうだっただろうか。そうだったような気がする。どうもタイトルというのは、多くの人に共通認識があるものから選ばれるから、いいヒキになるワードというとどうしても、そう沢山ないのではないか。

そのなかで日記というのは、一番具体的な話で、誰にとっても共通する日付や時間という目次がある。主語は私であり、私という個性が、体験したことを私が振り返り、編集し、描く。インスタグラムのSTORYというのもそうだけど。

ただ、それは本来、人に見せるものなのか。どうも、気恥ずかしい。日記というと文学者の日記というものがよく出版されているけど、あれは読まれることを前提に書いているかもしれないし、文そのものが読まれるものとして書かれるし、それで生きている人たちのものだから、また少し異なるのだろう……。

はたと思い当たるけれど小学校の頃の課題の日記というのは何。読まれる前提の日記というのは、不純な意思を育てているんじゃないだろうか。それとも、プライベートというか個人的な感覚をさらすことによってお互いの理解を深めるための装置なのだろうか。

どういう経緯で日記が課題になっているのか、気になってきた。


好きなものを好きといえばいいんだよ!と、そんな声も聞こえる気がする。感じることについて何をそうくどくどと、考えているのか。

感じることについて、考えたいなといつも思っているんですよね。どうしてこうも、斜に構えては、まっすぐ返事をしないのか。でもその方がもっと面白いんじゃないだろうか。

好きな絵はたくさんあった。空の青、山の緑、こう春先の風のような何ともいえない、入り混じったような空気感。光を反射するような、パステルの粒々。何か言葉を話しているような、街路樹や、カーブミラー。ちょっと中途半端な感じの猫が、意外と一番印象にのこったりしている。

アンビエントな音楽も、場も、すべて何かここちよすぎて、ヒーリングみたいな感じもあった。ディープなヒーリングの設計。


翌日はじめていったMuseumにあった新作が、またよかった。暗闇に光るあれは何の木なのか。

とても元気をもらった。昨日帰ってきてからも色々考えていたのだけど、そういうことなんだろう。



ふと撮った猫の絵




2023年2月24日金曜日

窓から(2)

 今日もここは夜でもう暗い。街灯が相変わらず一本立っていて、あとは鬱蒼としている。そのうえに、細い三日月や、小さな星などがひそけくまたたいている。

どうも私は、ボンヤリしている。

最近見た夢について書こうと思っているのだった。

あとは何か、日常でふれるものについて考えられたらいいと思っている。


短い方からいくと、日常の方なのだろう。それは、誰もがふれていて、誰もが何か馴染みのある日常のパーツを考えたら面白いと思った。たとえば……何だろう。スマートホン。牛乳。コーヒー。缶ビール。道路、横断歩道。

横断歩道は私にもおぼえがある。白い線が引いてあって、それを渡ったりわたらなかったりする。時に、大きな河のような道を渡ることはある。大変なときは6方向くらいの道が交錯してその中心がたまりのようになっている。魚たちが思い思いの方向から思い思いの方向へ、時にゆったりと、大体はあくせくと渡っていく。ああした道を平常心で渡れるようになっては、人もあやしいと思う。本来ああした道を過ごすために私たちは過ごしていないのではないだろうか。

観察しているといつもノートを手に、色々な話題をラジオのように放言するオジサンがいる。高めの声で空に向かって近況を語り上げる。その先には無数のリスナーがいる。それと共に歩く人びとも皆、彼のお客なんだろう。その奥には、フォトスポットに訪れたような思いの観光客たちが、思い思いにカメラを構えて写真をとっている。

祭りのように、猫の集会のように、ああした祝祭的な空間では、どうも正常な考え方を削がれる。観光スポットみたいなものなのだろうか。パワーを吸い取られるパワースポットである気がする。猫の集会を横切るように、その河を信号の示す通りに横断していく車も車で、通るたびに何かすり減っているような感じがしている。タイヤは常にすり減っているのだろうけれど。


やはり先ほどにまして私はボンヤリしている。

庭を映す窓は、部屋の光で鏡のように私の顔を映す。

昼間によく見るホログラムがあって、そのことを思い出す。

上の方にある窓の光彩を、金魚鉢が映して、そこから違う世界が広がっているような感じがする。ここは今はただ鏡のように私を映すだけで、右手をあげれば右手を上げるし、眉を片方あげればそうするし、何のことはない。

その先の歩道に誰かがいてこちらを見るとかいうことも、ない。

これがまた河であるならずいぶん人気のない小川で、対岸には何もない。泳ぐのはただ、小さな……………


そう、夢の話をするのだった。

「なんだケンタ、戻ってきたのか」

そう発言する男は、ケンタという少年ーー少年と青年の合間くらいの感じの男を、中学校の職員室で、むかえている。ケンタというのは、かれの息子であり、かれが勤める中学校の生徒でもある。

ただケンタは数日前からどこかへいっていた。


…………肝心なのは、寡黙で挙動不審なケンタが、そのとき男の机で気に留めたものだ。それはとあるロックバンドのCDジャケット。妙にひかれて、かれは目を離さない。

「どうした、気になるのか」

「うん」

長らく出かけて心配をかけたケンタに、男は怒るわけでもなく淡々と、ケンタの今見つめているものを見つめてみている。

そうして実は、その裏側でほくそえんでいる。

これをダシに、今度の演目でさんざん利用してやろう、と考えている。

何も言わずにケンタはそのジャケットを手にとって、また歩いていった。家へ帰るのだろう。願わくば、寝室においてあるコンポでそのディスクを聞いてみてほしいものだ。


私はそんな男とケンタに、あの練習場で出会った。中学の体育館みたいなスペースで、何やら大きな画面を広げて、そこにコマ撮りのマンガのようなものを流していて、一つのキャラにつき一人、大きな声で叫ぶ俳優がいる。男は監督をしていて、ケンタは、一人のキャラクターを演じている。



(夢 つづく)