2023年5月6日土曜日

窓から(3)

Am500。

鳥の声がたくさんしている。

チチュチチュというのが一番近く、左手の方から。

すこし遠くの、カァというのがたまに混ざる。これはカラスだろう。

あと色々としている。

窓の外には、黄緑色の花をつける桜があって、もう葉桜になっている。

風がいい。

と思ったら風がやんだ。すると鳥の声もやむ。なぜだろう。


葉桜のとなりには棕梠、というのかなぜだかこの敷地にずいぶん植っている高い木がある。その右にはねじねじとした、たくましい感じの木。また棕梠。

部屋の中にも植木がいくつかあって、外の木を見たり、中の木を見たりしている。

その中間に画面があり、その画面に文字を打ち込んでいる。


今日は人が多くきて、荷物をとにかく箱詰めしていた。荷物というか、物。暮らしの周りにすべてある、物。旅であれば荷物といって荷造りというが、それとしていることは変わらないけれど、家なので物という。本やCD、小物、ノート、文房具、資料(色々なものをとりあえずそういう)。食器や家具、服、小物。箱が無数にある。


無数の箱を、多くきた人が、詰めてくれている。長いつきあいの、それとこの家にもつきあいのある人たちで、手を貸してもらっていた。そうして酒をようよう飲んで、雑魚寝のうちに私は起きてこう外をみている。


また風がふく。どこかでアラームの電子音が鳴り続けているのは何なのだろう。誰かの目覚ましだろうか。 

2023年4月16日日曜日

坂口恭平日記を見た日記

熊本へ、「坂口恭平日記」へいった。

あのパステル画を見ておくのは大切だと思った。

気づくと3時間、4時間はえんえんと見ていたのだけど、

見ているうちに、色々と考えながら触れていたのが、感じるだけになっていった気がする。考えるのがどうでもよくなっていって、何か透明な描き手の視点だけが感じられるような、気がした。

こう長いこと見ていられるというだけでも、すごいと思うのだけど、

「すごい」と言ってしまうことに最近抵抗を覚えている。すごいの一語で思考停止しているんじゃないかと。

だから何となく、感じたことを書いておこうと思った。

とりあえず手を動かしてみようかと。ほんとうは絵や現場の写真なんかを交えた方が、

読む人は分かりやすいのだろうけど、一旦は面倒なのでしない。


「大気とか、空気の動きを見ようとしている」

そんな話がどこかに書いてあった。空気の流れだったり、大気の動きだったり。

空気の粒子と、パステルの粒子はきっと相性がよく、無造作な感じに足されている線、すこし試すように地にひかれた跡とか、そうしたものが妙に目に残る。

その日のその時の光。季節とか、天気とか、気分とか、作家の中で色々な要素が行ったり来たりして、けれどとても透明な感じで絵になっていく。透明な感じ、を感じる。感じを感じていて、どうしても、ピュアな目で見れない。何か、仕掛けているのではないかな、と感じてしまう。

というか、その透明さ、我の薄さ、それ自体が作家の作意なのかなと思う。

そんなことを考えてしまうのも自分の悪癖かもしれないと疑う。感じるものを感じるままに感じたらいいのじゃないとも思うけど、それより楽しい楽しみ方が、絵にはきっとあって。

透明というものの時に乱れている時もあって、以前に描いていた抽象とか、時期ごとに揺らいで生まれてくる。人物が出てくる時に、そんな心の動きが出てくる。

そう「展覧会」ではなく「日記」だから、絵の「良し悪し」とは話が違う。



抽象、具象。誰がそもそも言った言葉だったか、忘れたけれど、絵というのはそもそもが抽象であるという前提もある。紙と塗料と手と、そうしたもので、本当はそこになかった視界が、紙の上に描かれ直していく。それにより生まれる抽象物。

でもそれって、今文字を打っているこの画面もそうだな。画面が開いて、そこに文字が勝手にうかんできて、高度なワープロソフトがいい具合に変換をしてくれる。

抽象でないのは、風景ぐらいか。

突然、「風景」が目の前に立ち現れてきた。

そういったことを作家は書いていたけれど、そんな時は人にたまに訪れるのかもしれない。どうだろう。そう一般化みたいに書いてみるけれど、作家がそう言うというのは、作家のそれまでの活動とか作ってきたもの、それまで考えてきた時間などが経ったうえで、個別の体験として「風景が立ち現れてきた」わけだから、それはあまねく「人」に訪れるものとは違う。

アイフォンで撮った写真を、手で現像しているような……

そう作家は話していたけれど、写真はそうだな、パステルと相性がいいのだろう。光の粒子ひとつひとつを、パステルの粒子に置き換えていって、描きだしていく。

「P0000」と作品すべてに書いてあって、Pは何だろう、日記のページなのか、それか別のアルファベットのものもあるのか、などと気にしながら見ていたけれど、係の人にきいてみると「パステル」のPだという。ほかにも意味はあるのかもしれないけれど、この話はそう広がるものでもないんだろう。



あと「日記」ということに、どうも納得がいかない。いや、この展覧会はいいのだけど、最近どうも「日記」をよしとする流れが身近にある。日記をzineにして読ませたりする。○○○○○日記という本とか、いわゆるコンテンツに多くある。昔から、そうだっただろうか。そうだったような気がする。どうもタイトルというのは、多くの人に共通認識があるものから選ばれるから、いいヒキになるワードというとどうしても、そう沢山ないのではないか。

そのなかで日記というのは、一番具体的な話で、誰にとっても共通する日付や時間という目次がある。主語は私であり、私という個性が、体験したことを私が振り返り、編集し、描く。インスタグラムのSTORYというのもそうだけど。

ただ、それは本来、人に見せるものなのか。どうも、気恥ずかしい。日記というと文学者の日記というものがよく出版されているけど、あれは読まれることを前提に書いているかもしれないし、文そのものが読まれるものとして書かれるし、それで生きている人たちのものだから、また少し異なるのだろう……。

はたと思い当たるけれど小学校の頃の課題の日記というのは何。読まれる前提の日記というのは、不純な意思を育てているんじゃないだろうか。それとも、プライベートというか個人的な感覚をさらすことによってお互いの理解を深めるための装置なのだろうか。

どういう経緯で日記が課題になっているのか、気になってきた。


好きなものを好きといえばいいんだよ!と、そんな声も聞こえる気がする。感じることについて何をそうくどくどと、考えているのか。

感じることについて、考えたいなといつも思っているんですよね。どうしてこうも、斜に構えては、まっすぐ返事をしないのか。でもその方がもっと面白いんじゃないだろうか。

好きな絵はたくさんあった。空の青、山の緑、こう春先の風のような何ともいえない、入り混じったような空気感。光を反射するような、パステルの粒々。何か言葉を話しているような、街路樹や、カーブミラー。ちょっと中途半端な感じの猫が、意外と一番印象にのこったりしている。

アンビエントな音楽も、場も、すべて何かここちよすぎて、ヒーリングみたいな感じもあった。ディープなヒーリングの設計。


翌日はじめていったMuseumにあった新作が、またよかった。暗闇に光るあれは何の木なのか。

とても元気をもらった。昨日帰ってきてからも色々考えていたのだけど、そういうことなんだろう。



ふと撮った猫の絵




2023年2月24日金曜日

窓から(2)

 今日もここは夜でもう暗い。街灯が相変わらず一本立っていて、あとは鬱蒼としている。そのうえに、細い三日月や、小さな星などがひそけくまたたいている。

どうも私は、ボンヤリしている。

最近見た夢について書こうと思っているのだった。

あとは何か、日常でふれるものについて考えられたらいいと思っている。


短い方からいくと、日常の方なのだろう。それは、誰もがふれていて、誰もが何か馴染みのある日常のパーツを考えたら面白いと思った。たとえば……何だろう。スマートホン。牛乳。コーヒー。缶ビール。道路、横断歩道。

横断歩道は私にもおぼえがある。白い線が引いてあって、それを渡ったりわたらなかったりする。時に、大きな河のような道を渡ることはある。大変なときは6方向くらいの道が交錯してその中心がたまりのようになっている。魚たちが思い思いの方向から思い思いの方向へ、時にゆったりと、大体はあくせくと渡っていく。ああした道を平常心で渡れるようになっては、人もあやしいと思う。本来ああした道を過ごすために私たちは過ごしていないのではないだろうか。

観察しているといつもノートを手に、色々な話題をラジオのように放言するオジサンがいる。高めの声で空に向かって近況を語り上げる。その先には無数のリスナーがいる。それと共に歩く人びとも皆、彼のお客なんだろう。その奥には、フォトスポットに訪れたような思いの観光客たちが、思い思いにカメラを構えて写真をとっている。

祭りのように、猫の集会のように、ああした祝祭的な空間では、どうも正常な考え方を削がれる。観光スポットみたいなものなのだろうか。パワーを吸い取られるパワースポットである気がする。猫の集会を横切るように、その河を信号の示す通りに横断していく車も車で、通るたびに何かすり減っているような感じがしている。タイヤは常にすり減っているのだろうけれど。


やはり先ほどにまして私はボンヤリしている。

庭を映す窓は、部屋の光で鏡のように私の顔を映す。

昼間によく見るホログラムがあって、そのことを思い出す。

上の方にある窓の光彩を、金魚鉢が映して、そこから違う世界が広がっているような感じがする。ここは今はただ鏡のように私を映すだけで、右手をあげれば右手を上げるし、眉を片方あげればそうするし、何のことはない。

その先の歩道に誰かがいてこちらを見るとかいうことも、ない。

これがまた河であるならずいぶん人気のない小川で、対岸には何もない。泳ぐのはただ、小さな……………


そう、夢の話をするのだった。

「なんだケンタ、戻ってきたのか」

そう発言する男は、ケンタという少年ーー少年と青年の合間くらいの感じの男を、中学校の職員室で、むかえている。ケンタというのは、かれの息子であり、かれが勤める中学校の生徒でもある。

ただケンタは数日前からどこかへいっていた。


…………肝心なのは、寡黙で挙動不審なケンタが、そのとき男の机で気に留めたものだ。それはとあるロックバンドのCDジャケット。妙にひかれて、かれは目を離さない。

「どうした、気になるのか」

「うん」

長らく出かけて心配をかけたケンタに、男は怒るわけでもなく淡々と、ケンタの今見つめているものを見つめてみている。

そうして実は、その裏側でほくそえんでいる。

これをダシに、今度の演目でさんざん利用してやろう、と考えている。

何も言わずにケンタはそのジャケットを手にとって、また歩いていった。家へ帰るのだろう。願わくば、寝室においてあるコンポでそのディスクを聞いてみてほしいものだ。


私はそんな男とケンタに、あの練習場で出会った。中学の体育館みたいなスペースで、何やら大きな画面を広げて、そこにコマ撮りのマンガのようなものを流していて、一つのキャラにつき一人、大きな声で叫ぶ俳優がいる。男は監督をしていて、ケンタは、一人のキャラクターを演じている。



(夢 つづく)

2023年1月30日月曜日

窓から(1)

今日はここは真っ暗で、少し先に街灯がひかっている。外灯が照らすのは小路。そこは駅のあたりからなんとなくナナメにつづく小さな路で、通勤通学、酔ったあとの喫煙路として使う人が多い。絶妙に、遊べそうで遊べなさそうな遊歩道になっていると思う。今も、大声でうたいながら自転車で駆けゆく人がいるのだけど、それって近隣的にはやややかましいから、どうなのと感じる。ああいうのは、何。デジタルな耳栓をして、自分の音だけを聞いているのか、結構あぶないし、もっとかそけき音を聞く方が楽しいのじゃないかなと感じる。

小道にはしかし色々なことがあって、気づくとそこにいる若いカップルが座って、話し込んでいたりする。話し込んでいる合間にスマホを見ては、誰それの近況を話したりしていて、話自体は一向に進まない。あるいはどうもパパ活みたいな二人連れが行き来したりしている。まあ、それはさておいて。

街灯の手前には、庭がある。大家さんが丹精して、何か色んな樹木が育って独特な生態系をしている。今は冬だから葉っぱが落ちて景色がまっすぐ見えてしまうけれど春や夏にはもっと鬱蒼として、先が見えない(鬱蒼という文字は久しぶりに見るけれどすごい)。

生態系もすこし豊かなのだろう。街中ではあまり見かけない鳥がよく行ったり来たりしている。鳥を見るたび名前を調べてみようとするけれど、日々の些末な事ごとに邪魔をされて、気づけば飛び去っているみたいだ。チチュ、チチュ……などと、声を交わして、やってきてはどこかへ行く。

その庭はもうきっと30年やそこら、大家さんが丹精をしているのだろう。いつだか「緑色に咲くサクラがあるんですよ」といって、見せてもらった。たしかにほのかな緑色で、ずいぶん目にやさしいサクラだと感じた。そのまま、小道にいける勝手口から出て行ったのだけど、そこは普段は、ちょっと遠慮して使っている。ずいぶん、うるさいらしいから、一階に住む彼女の邪魔はあまりしてはいけないなと感じる。

ひょっとしたら土もずいぶん豊かになっているのだろう。いつだか秋田からやってきた旧友がろくでもなく酔っ払っていた。旧友は酔いしれていつか床に寝ていて、気づくと起き上がって、うぞうぞと外へ向かって行って、どうしたのかと思うまもなくベランダから地面に嘔吐した。ちょうど雨も降っていたから雨の中かれのだしたものを掃除したのだけど、何なのと思う。そんなものも吸収して、土は育つのだろうか。いや雨に流されて洗われていてほしいよ。

窓から見える景色は、変わらぬようでうごめいている。春の生き物のように。春の、心持ちのように。

2023年1月17日火曜日

1.17-18 _豊かさについて

梅田の阪急でみた上出長右衛門窯×kamide shigei×上出惠悟という人びとによる「KUTANNI CONNEXION」に豊かさを漠然と感じたのだけど、それは豊かさを作ろうとする、豊かさというか。というところを考えておきたいと思った。

それを感じたのは、展示にいった日の昼に見た、写真家の谷藤貴志さんの展示(flostsam books)からつながっているのかもしれない。

谷藤さんはずいぶん前に知り合って、長いこと消息はなかったけれど、

昨年急になんか写真集を出して、送ってくださった。聞いたら、昨年じゃなくて一昨年だったらしい。

モノクロームの写真が淡々と並んで、いつの時代か分からない、撮り手も曖昧な感じがする・・・、不思議な本だった。

妙にイメージに残るけれど、具体的な意味を語らないもの。

ただ、その谷藤さんという人の生きてきた物語がある様な感じはしていた。


それは家族の、一族の物語でもあるのだという。

二世代まえに日本に集団で移住した一族のなかの、彼の家族。

それと、色々な土地で時間をともにした人との濃厚な記憶が絵になっている。

どこか抽象的なおもむきもあって、画がいい。

最初に訪れたときは、壁面にあるキャプションのない、電車の中の父と子の写真に惹かれたのだけど、それは思えば谷藤さんの写真の、とても好きな一枚だった。車窓からはいる光がやさしい。

撮ったのは谷藤さんだけではなくて、親族の撮った写真も無造作(のように)置かれている。「写真家」という個人にしばられない、何か選び手としての手の運び方が面白く、色々な見方ができる。

ちょうど訪れた知人の京都の古道具屋さんを前に、飄々とスライドをあやつる谷藤さんの感じも、四方山話も素敵でした。


さて、上出さんの展示に感じたのも、そこから続いている。

一個人の可能性とかやりたいイメージにとどまらず、そこに生まれたことだったり、美術家として生きていることだったり、デザイン的な素敵なセンスもあるし、とはいえ無理をおして継いだ稼業、その経営を日々あくせくとこなしていたり、、、表現とか仕事とかコミュニケーション、生活・・・ないまぜになった複合的なことを常にしている。

判断につぐ判断、合間にうまれる奇異なイメージ、変態的な発想。

そんなものがないまぜになる根っこのところに、やはり自分の根である大きな一族・・・窯があるんだなと、ギャラリーツアーと題したトークをきいていて感じた。

すごくありていな言い方でいうと、伝統がなしてきた暮らしの豊かさを、その場を保ちながら今の人に向けて、出し続けている。あらゆるモチーフやかたちに理由があってその濃さって面白いし、それが暮らしにあることに豊かさを感じる。そんな豊かさを、普通に、真正直に彼の視点で生み出そうとしている……そうしたことを感じていた。

そのトークの記録を取り忘れていたのは残念だけれど、それは渾然としているから続くのだろうし、渾然となったところから生まれる力もあるのだろう。そんな感じで、上出さんはつらつらと、言葉をゆっくりと選びながら話す。ゆっくりと、というのは大切だ。自分の呼吸だから。

「デパート」への憧れとか楽しさを空間で描き出していたのも楽しかった。デパートというのにそもそも抵抗感があるからその楽しさは芯から味わえなかったけれど。向かいに「九谷焼最前線」のような展示をしていたのも面白かった。いやでているものも面白いと思うのだけど、色々な視点が入り混じるCONNECTIONのほうが大層はまった。


いつかから熊に突然惹かれた上出さんの、熊についての話に、ちょうど読んでいるアミタヴ・ゴーシュの『大いなる錯乱』(以文社)とのリンクも感じた。それは近代というか現代がつくった仕組みによって、ないがしろにされたもの・・・というか「思考しえぬもの」となった物事のこと。でもそこに拠り所が、本当はあるのでは? という話なのかな。文芸の先端の人が語っているからまた面白いし響く。というか、気づいてないことばかり。まだ途中だからはっきりしたことは言えない。

上出さんの仕事についても、もっと考えていきたいと思う。


それで豊かさというのは、自分自身、類縁がそこまで多くないのと、あまり歴史をかえりみないところがあるから、なおさらそう感じるのかな〜〜と思った。


雑然とした週末の記録。

それらを結びつけるのは、ただ私が感じたことその一点のみ、なのかな? 東京にかえってから見た本日休演と山本精一play groundEASTのライブも僥倖のように素敵だった。あの空間に音が広がっていく感じ、声がしんと響く感じ・・・、また書きたいと思う。

とりあえずそんな豊かさを思ったことと、生まれ年の今年のおまもりとして、ウサギの水滴を買った。机上に、今にも跳びそうにしゃがんでいる。

持ち心地のいい未来派。


2023年1月8日日曜日

鑑賞者の状態(1)

本について思い返してみると、展覧会のことや様々なライブのこと、買ったCDやDVDのことなども振り返ってみたくなるけれど、あまりちゃんと記録が残っていない。

ジャズ、アンビエント、フォーク、アンビエントなジャズ、ソウルフルなジャズ、ディープなアンビエント、フリーキーなフォーク、パンク。聴いた音楽についてまとめようとすると、どうにも、なんかキザったらしいものばかりに見えてしまう。

代わりに思ったのは、鑑賞者の状態について。いつからか池間由布子さんのライブに通うようになった頃から意識するようになったけれど、やはり状態が大切だ。体力と心持ちと。つまり、いきせききって急いでいくようでは、フルに楽しめない。息を整えたり、あと、なんか残してきた想念がライブの間もしきりに思い出されたりする。それはそれで何だか頭が回転して面白いのだけど、ライブそのものの感じを楽しみきれていない感じがする。

あと飲みすぎると寝るし、飲まなさすぎてものりきれてなくて楽しくない気もする。とはいえライブの性質もある。静謐な音楽というとヘンな言語だけれど、そんな場もある。うるさくたって、がんがん眠気はやってきたりする。それは演者のテンションだったりその日の演奏が自分の波長に合うかどうかというのが肝要であるけれど、いかにいいコンディションで見るかが大事になってきている。

なにかライブについて考えるとすると、上がりすぎて管楽器のようになった哲夫と又サニーと潮田雄一+久下恵生はほんとうにすごかった。それと池間さんも年の半ばまであまり見れてなかったけれど、なんかすごく進化している。年々知名度もうたも成長しており、刺激を受ける。あなたとわたしと船の歌が刺さる。と思えば昔からやっている曲も変化を続けていてそれも面白い。そのよさは当然として、とても真摯な人だと感じる。

菊地成孔さんのラディカルな意志のスタイルズも、ものすごかった。音源がまだ出ていないからこその面白さもとてもある気がする。聴いてしまうから、何か覚えがあるもののように感じて、脳内再生されてしまい、新鮮な音への感覚が弱まるのかもしれない。バンド名からしてもそうだけど、無性に文学を思想を感じる。もっと見てみたい。

音源もそうとう色々きいたけれど、ひとつ上げるなら、KRISTO RODZEVSKI『Batania』はものすごくきいた。とても豊かな音。ユニオンのキャプションに、玄人揃いで何度でもいつまでも聞けるもの、と書いてあったのがその通りで、やはりユニオンはすごいと思う。

美術館にも意識的によく行っている。美術の仕事からはなれて4年経つけれど、なんだかやっと仕事の視線からはなれて見ることができるようになった、気がする。仕事とは技術であるから、どうしても感性も仕事の感性に食われるところがあった。感性はだいたい一つのはずだから。

キャプションを見ずに進めて、気になったらキャプションや解説を読むのは変わらないけれど、だんだんとキャプションも楽しめるようになってきた。立花文穂の展示が断トツで素晴らしかった。あの自由さ伸びやかさ、唐突な音楽など、すごいものを見た。あの均整のとりかたも、すごいし、どこかかわいい。大竹伸朗、リヒター、数々みて残っているものは多くあるけれど、大竹さんは薄塗りの薄明かりみたいな大きな絵と、リヒターは最後のドローイングに心惹かれたのをよく思い出す。

あ、ウォーホルキョウトもすごくよかった。あの規模で初期のドローイングを見られるのは稀有なのでは。予算都合もあるのかもしれないけれど。やはり線と色の力が卓越していて、でもやっぱり、何か時代を見越した目がすごいのだなー・・・、などと感じる。

もう一つすごかったのは、去年でなく今年見たけど諏訪敦さんの府中市美術館の展示。みすぎて燃焼したのだろうか……すごいストーリーであり、ドキュメントだった。絵画を見る、ということの面白さやヤバさを思ったのは豊田市美術館の奈良美智展以来なんじゃないか。人物がもちろんすごいのだけれど、あの発光しているみたいに置かれた静物画。そこにさす炎、光と煙。そこに艶かしさを感じるというのはどういうことなのだろう。順を追ってじっくり見られた府中という場もとてもよかった。

だからそう考えると、現代絵画のよさは、同じ時代同じ空気を摂取しているからこそ伝わるものは大いにあるんだろうと、あらためて。リヒターは正直ぐっとこなかったし、大竹伸朗は勿論とても尊敬する存在だけれど、どうもその行為の軌跡ばかりが頭に残ってしまって、作品そのものにぐっとくることが少なかった。

ギャラリーでは横山雄さんの展示を2回見た。彼はすごく卓越したカラオケ者というのにもおそれいったけれど、あの線に込める感じとバランス感に、もっと続きが気になる。井上有一のような現代書道にも通じるものがあるのでは?どうだろう。絵画というのが絵具という物質からなる抽象であるように、「線」というのは抽象なんだ、というのも感じた気がする。ミニマルで豊かなもの。ギャラリーといえば遠藤薫さんのあざみののグループ展もよかったし、あとは森岡書店などでのLEE KAN KYOは手伝っている身ながら、いいものを見せてもらった。「手作りのNFT」なんて本人がいないと、同じことをいっても説明のつかない感じがすごい。でも本当は絵がうまい人(STUDIO)なんだなとも思う。でもむしろ、目とかコンセプト、粘り強さがすごいのだろうな。大阪polの平木元の個展も素晴らしかった。額装自体が素敵だし、ああやって、額装で一枚一枚見てみたいとずっと思っていた。日本語のタイトルというのも、その場でのストーリーを考えるのにいいのだろう。どこまで説明するのかは、按配が必要だけど。なんだか、暗いし哀しい、けれど前向きな何かを感じた。ブルーズというのだろうか。色々と、試しているみたいだ。

映画館では、年明けに見まくったタルベーラはすごかった。サタンタンゴはもういいけれど、あの不良ミュージシャンの映画はまた見たい。すずめの戸締りもよかった。あとは、わたしは最悪、か。ストーリーの語り方のレベルが段違いだった。あ、ヴェンダースのオールナイトもよかったな。岩波ホールでの、チャトウィンの映画も。

フタつきの缶というか瓶のチューハイが大層役に立つことが分かった。

思い出していくときりがない。


2023年1月7日土曜日

昨年よかった本

・ラーナー・ダスグプタ『ソロ』

 小説ってこんなに面白いんだと久しぶりに思い出した。ソロの演奏の場面や生命がリンクする感じがすごい。しかし細かい内容は覚えていない

・チャトウィン『黒ヶ丘の上で』

 静謐なのに、どこまでもドラマティックというか、リズムがすごい。ガルシアマルケスの100年というのがあるけれど、まったくまともな100年。しかし双子というのが不思議な装置なのだろう。住んでいる地域を「面影」と邦訳しているのがとてもよかった。チャトウィンは映画も素晴らしかったし、もっと小説があればいいのにと感じる。あ、『ソングライン』も素晴らしかった。

・エンデ『ものがたりの余白』

 エンデももっと読んでみたいと思って岩波現代文庫を揃えたが、思いの外硬質すぎて、なかなか入り込めない。エッセイをつらつら読むのがとてもいい、箴言みたいな。それで語りのこの本が結局とてもじんわりしみた。

・しりあがり寿『マンガ入門』

 うれしくもしりあがりさんと遭遇することが出来て、その後読んだ。構成や作り、あの朦朧としたセンスが、ほんとうに好きな作家なのだけど、評価が追いついていないと感じる。本もそう売れないのだろう。とはいえ、ぬきんでている。とても仕事のできる方なのだとも一方で思い、そうした仕事やマンガの作り方が淡々と、とても上手に描かれていて大切な本な気がする。

・オルガ・トカルチュク『優しい語り手』

 『逃亡派』だったり『夜の家、昼の家』だったりいつもタイトルが抜群に好きなのだけど、内容もとても好きだ。旅がある、ヨーロッパらしい。

・アンドレア・バイヤーニ『家の本』

 構成がツボすぎた。「家」が主体で「私」を客体でみるという語り方にとても惹かれる。読みにくくて疲れるのだけど、だんだんと抽象的な「私」の像が近づいたり遠ざかったりして、愛おしくなる。

・ウィリアム・モリス『小さな芸術』

 100年以上前の講義録。疲れた。疲れたのは、その時代の話している情景を想像するのが大変だったからだろうか。あるいは話自体がどうも冗長で面白くなかったのだろうか。けれど曇りのない感じの語りに、ときにとても大切なメッセージを感じた。労働への誇り。楽しみ。それだけの粒度で、生活を見れていますか? かんの発泡酒を大量消費するばかりの日々に私たちは絶対見れていない。

尹雄大『親指が行方不明』

 尹雄大さんのテキストには不思議な呼吸があって、はまり出すとそのまま止まらず一気にいってしまう。それはすごい力なのだと感じる。こういう、どこか中道から外れたという感覚は、誰しもグラデーションであるもので、そこに視線がいったり行かなかったりする。などということを思うたびに、この方の本や書いたものを思い出す。

・田村隆一『ぼくの憂き世風呂』

 こんな語り方があったのかと驚いたけれど、うますぎる。洒脱でいやみがない。とても豊かな内省と対話の世界に、もっと今の人も影響を受けてもいいのではないのかと思ったので、何かにつけ参照してみて書ければとは感じる。

・池内紀『見知らぬオトカム』

 ひさしぶりに立ち寄ったカウブックスで、ふと見つけた。辻まことのことをよく考えている。これだけは読んでいなかった。あれだけ色々な分野のすきま、というか狭間から何事かを見ている視線と、それを描き出す術なのか。もっとこういう表現を自分がしていければいいな。

・『地図の記号論』

 金沢にいったのでオヨヨ書林に立ち寄ると、ふと目があった。「地図」についての本や語りにいつも惹かれるのは何故なのだろう。知らぬ作家さんの、戦時中の地図だったり。北海道のある街の見取り図だったり、上野の話だったり。いい。


思い出せる範囲で印象だけで書いてみたけれど、本当はこの倍くらいあったような気もする。しかし印象ばかりで内容をいかに覚えていないのか気づく。そういう感受性なのか。『ウェルベック発言集』は面白かったけれど、どうも馴染まないし読みにくい話も多かった。

2022年2月16日水曜日

悩みについて(1)

もやもやとしている。それは悩みというのだろうか。

悩みとは何だろう、うかつに人には言えないことか。

それとも何だろう。考えてもすぐには分からないこと。

それも、どうも考えても面白くないこと。

しかし、気になってしまう。それって、嫌いな人とか嫌な出来事のことに似ている。どうしてもうまくいかなくって、悩ましい。靴の中にしのび込んだ石ころとか、あるいは、のどに引っかかってとれない海苔とか、とれそうでとれない歯石。どうも、ひっかかりのある黒っぽいものを想像してしまう。


人との関係がそうだ。そうだ、というか、そこから生まれているものだ。そうじゃないことは、あるのだろうか。あるような気がして考えるものの、人との関係なくしてあることは、あるのだろうか。抽象化された概念などなら、もしかしたら悩ましいかもしれないけれど、それを考えることには、労苦はあるのか。


そのもやもやというのは、ある二人のことについてだろう。二人とも、よく知っている人だ。「よく知っている人」といえる相手というのは、きっと両手の指の本数にも満たない。お互いに、そうじゃないかと思う。勿論、全くすべて知っているというわけでもない。そのよく知っている人の二人は、お互いに長いつきあいで、どこか似ている。その一方で、どこか似ていない。誰しもそうかもしれないけれど、まあ、その二人はそうやって、昔から、どこか近づいたり、遠ざかったり、仲違いをしたりしている。そういう二人というのも、けっこう沢山いるだろう。


その話に、あまり遠回りしても仕方がないが、近づきたいわけでもない。話というのは、もやもやしているからだ。それで、二人は、バンドなどをしている。バンドというのは人がいう言い方だが、まあ一緒に音楽をして、決まった曲を演奏したり、決まっていない曲を一緒に試みたりしている。その中で二人は、ある役割をやっている、その場の空気とか、テンションに合わせて、その役割は微細に変化を続けるけれど、二人がいて受け答えをしているというのが大事なんじゃないかと思う。その中にはいないわけだから、勝手な想像でものを言っている。けれど、きっと音とかふるまいのコミュニケーションで、話は進んで、話というのは頭で考える前にきっと空間の中で磁場になって出来事になっていて、その出来事を、それぞれの立っている地点で感じている。それがつみかさなる時間になる。それが、ライブというものだろうか。


ライブというのは最近ずいぶん間遠になっているけれど、先週に久しぶりに、好きなミュージシャンが演じている、小さなジャズバーでのライブにいった。ギタリストは「この世界が生まれてから、同じ音はひとつとして存在していないし、あなたが何を聞いているか見ているか、それは決して分かりようがない」といったことを、ライブのあとに飲んでいると、話していた。真っ直ぐに私の目をまなざしてそう言う。


話がそれてきているけれど、モヤモヤとしているから、どこへ行ったってそう変わらないことだ。脳の毛細血管のトラブルから発するモヤモヤ病、とかではない。現実にもやもやしているスモッグがかかっていて、私のあたまのなかは、どうも先が見えない。先が見えないことが、むしろ面白くもあるのだろう。そう、まなざしのことを言っていたけれど、そのまなざしも、どこか面白みを含んでいて、好ましく見えるものだった。それは、そうしたまなざしが交わされているから、音というのは面白いのじゃないかなと感じられた。すこし飛躍しているだろうか。けれども先に話した二人というのは、どうもここのところ断絶していて、しかし見えない線で傷をはらんで互いにひりついていて、それがどうにもモヤモヤしている。時は、何かを直したり、何かひずみが埋まったりしていくこともあるかもしれない、地面のように。


あ、息が急いだ。

急いでも仕方がない。



2021年12月11日土曜日

途中の計画

  あなたは仕事柄、よく散歩をしている。別に、歩く仕事をしている、というわけじゃない。

 歩いていると、空洞の多い頭の中で、何かコロコロと転がる音がしている。言葉だろうか。

 後ろの方から、何か人の気配がしている。呼吸するような声。はぁはぁといいながら、ジョギングをしている。蛍光色のシャツを着ている。蛍光がチラつくことで脳の回転に磨きがかかり、その揺れる速度をより速くしているらしい。右腕にはスマートフォンをくくりつけていて、そこから何か音が流れている。必死な感じのシティポップ。後ろから来ていたのが、ゆったりと歩くあなたを追い越し、その先へいく。この人は一体、何をしたいのだろうか。

 と思うと向こうのほうから、スケートボードを必死にこいで走ってくる人がいる。リュックを背負って、ガッ、ガッ、ガッ、とこいでダーと走る。それを繰り返す。片手にはスマートフォンを握っている。その人もあなたのことを通り過ぎて、今度は後ろの方へ行き過ぎる。それが移動手段なのだろうけど、ずいぶんと大変そうだ。歩いた方がいいんじゃないだろうか。


「DIVE, DIVE, DIVE」

とびこめ、もぐれ、あたまからいけ。そんなことだろうか。向こう側の道の壁に、急に書いてある。コンクリートに鮮やかなスプレーの一筆がきで、これは路からのサインなのだろうか。そうして歩いていると、その言葉が歩き方にそって頭の中で、リズミカルに弾ける。あなたが好きなグミみたいな感じ。

 あなたはそうやって、言葉や思考を待っているフシがある。九割くらいは、ささいな思いつきだったり、新しい冗談のアイデア、よく思い出す思い出、たずさわる職務の悩みだったりする。でも時おりしれっと、原石のような何かが転がってくる。そこから断章が生まれて、話がぽつりぽつりと、転がっていく。それ以外のあり方もあるのだろうけれど、あなたには今は分からないし、つかめない。

 車道を川と考えるとその対岸に、あなたと同じ道筋を歩いている二人連れが、目に入る。一定の距離をおいたまま、前方の男性のような人は歩いていて、後方の女性のような小柄な人は自転車をひいている。おたがいに缶の飲み物をすすりながら、ぽつりぽつりと会話をしている。眺めていると、

「ねえ、どうやっていくの」

「そこの角で、左に曲がってあとはそのまま」

「そのままどうするの」

「歩くんだよ」

「もう疲れた」

「でも、歩くんだよ……」

 そう言いながら、そこの角を左に入っていく。距離を置いているけれど、手を二人つないで、前の人が後ろの人の手を引いていくみたいな雰囲気も感じられる。それもまた歩きのかたちなんだろう。あなたはゆっくり、そのリズムを保つように考えながら歩いているから、まだそんなに疲れていない。

 その角の左の方には、あなたがたまに訪れる飲み屋などが数軒、並んでいる。その店を横目に見ながら、二人は帰っていくみたい。それか、一軒寄っていくんだろうか。


 あなたは、ある時よく分からない村にいたことを、ふと思い出す。

 その村は、幻想的な傾向のある村だ。暗闇の中に路地があって、その先に店の光がまたたいている。真夜中の、小さな飲み屋街の通りみたいだ。でもそうではなくて、ああした通りのつくりが、そのまま村になっている。山あいのその場所は、狭い平地をそうして細かく区切って、人たちが過ごしている。だからそこは昼の町でも、薄暗闇の路地が多く通っている。

 そのようにあなたは回想をしていて、回想はしばらくつづく。

 そこは風通しがいい場所だった。浮世離れした人が行き来している。というものの、そう思われているのはむしろ、あなたの方だった。観光をする人も少ないその地に、ふと訪れては勝手なことを言っている。どうして来たかというと、そこにもう一人浮世離れした知人が来ていたから。かれは当地での浮世離れを自覚しながら、その場所と空間を使って、店舗をしている。

 店舗というのは、かれは、公共の空間や町の通り沿いに、新しい部屋をつくる。かれ、と言ってると馴染みがでないので、仮に、八子さんとしておく。八子さんがつくるそこでは、住民たちが物々交換をして、みんなの部屋をつくっていく。生身のインスタレーションみたいに住民が日々行き来して、仮想の居間が、実際の居間になっていく。しかし実は作品でもある。そんな説明でいいのかは、あなたには断言できない。

 居抜きで改装された部屋は、三つの部屋に分れている。窓や壁などなく、縁側ごしに、断面図のように路上に開け放たれている。そういうと作品っぽくきこえるのだけど、その集落ではむしろ普通で、昼間は開け放って夜は布でおおいをする程度のつくりが主流だったから、違和感はなかった。

 縁側は竹で編まれたテラス。部屋の内部はすべて水色のペンキで塗られ、三部屋を分ける壁は白かった。動き続ける舞台装置のよう。しかしそこは舞台ではなく、生活の一場面で、そうしたあわいに店舗がゆれている。

 「住民が、何やってるんだろう。たかってやれ。って集まってくるよね。僕はそれに乗ったらあっちのペースにのまれるな、と思って、無視していた。それで淡々としていたら、こっちのルールに乗ってくれるようになった」

 あなたが行った頃には、もうだいぶ部屋は部屋の体をなしていた。はじめは、八子さんが用意した、古びた赤いカーペットしかなかったらしい。

 部屋に入る。真ん中の大きな部屋で、人がそこに寝そべったりご飯を食べたりするメインルーム。壁には、物々交換したものを描いたワッペンがある。こう布にひとつひとつ書いていき、壁に貼った地図上の、交換してきた場所にピンで留めていく。ここでこの日に、イスとぬいぐるみを交換した。この家を訪ねて、トナカイの置物をもらった。壊れたイスをもらった。イヌが着いてきて気づいたら居ついている。それがこの店の日課だ。店というか、装置というか。八子さんは装置をまわす素材として、そんな日課を設計していた。日課は時間を生む。住民たちはそれにつきあって、一日のうちの、ある時間を過ごしていく。ひまな子たちは沢山、遊びに過ごしている。

 日課は、他にもある。朝晩、店舗を開け閉めすること。八子さんや手伝いのスタッフが日記を書くこと。それと毎週欠かさずその週の出来事を編集した「手紙」をつくって、支援者たちに送ること。

 向って右側の部屋。壁には壊れた傘や、子供用の民族衣装のようなもの、落書きが沢山貼ってある。たむろする子どもたちが描いたのだろう。床には円いイスのようなもの。それでもう一つ壊れかけた藤椅子があって、子どもが座ったり転がしたりして遊んでいる。あなたが滞在している間ちょうど、この部屋に大きなソファが入った。民家から皆で運んだ。八子さんともう一人の男性が前後で背負って、その周りを子たちが囲んで賑やかにしていた。

 日々、物々交換がされて、だんだんと居間のかたちが出来てくる。時間はゆるやかで心地いい。12時から18時の開店の間、人びとはかわるがわる訪れて、テラスに座ったり、何かいじったり、手仕事をしたり、世間話をしたりしている。子どもは遊びほうけ、時に小さな子が泣きわめく。店の前では車や人、鶏や鴨や犬などが行き来している。そうしていると村の生活に馴染んでしまうのが面白くないから、ときに料理をする。流しそうめんをする。仮装して、町を練り歩いたり、祭りのような事をする。それは町の暮らしと境界線がとけていって、お店が生活のなかにとりこまれるのを、押し留めようとしているという。

 そう、雑な音楽や、男女の嬌声などが遠くに聞こえている。それはあなたにとっては懐かしい、何だかピュアな骸骨みたいなものがうろうろ動いている様。それがどうして懐かしいのか、なにか昔にみていたのだったかは分からないけれど、どこか見覚えがあった。骸骨のようなものをかぶって、人たちは踊ったり、町を練り歩いたりしていた。それについて歩いていくと、火を焚いている小さな家に、女性が出迎えをしていて、ポップな仮装はその入り口で何かやりとりを行なう。それで気づくことには、彼らの見積もりでは、それは平坦な時間を揺さぶるハレの催しだったけど、この地には既にあった。既に日常に祈りがあった。自分たちであわいへ向かう、パラレルワールドがあった。


 それで、あなたは歩いていると、遠くに何か飲み屋の喧騒がしている。いつしか、そこにある石でできたベンチに腰掛けている。いつも、ふと座りたくなるベンチだから、座って、そこのコンビニエンスストアで買った缶のサワーを飲んでいる。乾いた風が心地いい。季節はもうあれだな、秋なんだな。いや、秋も終わるのか?

 その部屋があった国も、秋だったのか? 乾いた風が吹いていた。熱帯だけれど山あいだったから、そう暑くなくて、時折霧のような雨がふって、すぐに乾いていた。時々、強い乾いた風が吹いていた。どちらかというと涼しくて程よかった。

 ああ、そうして思い出したように、部屋の左側の部屋を見る、大きなものはないが、何か作業をする。イモを焼いたり、ニンニクを干したり、何か書いたり、機械を触ったり。だから子どもは入りづらそうにしている。あと、棚のようなものに、不通のデンワや錆びて真黒になった地球儀、錆びた箱などが置いてある。あとは、カゴが少々。これは彼らが物々交換に繰り出す際に背負っていくカゴ。そこにある電話機で、いつも遊ぶ女の子が居た。「もしもし、もしもし」言うとスタッフのYさんが応答する。「もしもし?」まだ先の仮装のやりとりが、頭に戻ってくる。

 過ごしていると、子どもがどんどん膝や手足に集ってくる。まとわりついたり、慌ただしい。あなたはぼけっとして、何を思ってそこにいるのだろうか。何も思っていないということはないのだろうけど、明確に何かを考えていたのか。そうして、ノートに何かを書きつけている、その場にいる実感とか景色の描写。あるいは今遠くにいった暮らしのこと? もうノートは残ってないけれど、そんなことだっただろう。残してきた暮らしでは、男女のつきあいをしている相手がいて、離れてみてその人に感じることがあったのだろう。そこにいると、時間や空間は、ありあまる程あるように思えたから、少し離れて考えることができた。

 書く間、おじさんが、あなたの手元をずっと見つめている。彼は色黒で、浅い筒みたいな帽子を被っていて、瞳は灰に薄青、とても澄んでいるし、一部はとても充血している。何か、コトバを教えてくれた。ノートの左上に書いてもらっている。血管がとても立った骨太な手で、書かれ続けるままになっている。何て発語したのか全く覚えていないから記号にしてみると「●○●○●○」と確か言いながら書いていた。現地ではそう発音されるらしいがどうも「△▲△▲△▲△」としか耳に馴染まない。何故だろうか。言いやすさからか。気づくと手に何か缶をもって飲んでいて、あなたにそれをすすめてくる。とてもケミカルな香りの飲料で、これはあれだ、

 「ストロングゼロ飲んでるの。だめだよそれは身体によくない」あなたは首をななめにふって手を上げて辞する旨を伝えたところ、おじさんは少し残念そうにそれを手元に戻す。もう片方の手には大きな、傘が手のひらほどもあるナメコのようなものをつまみに持っていて、それは少し食べたいと感じたが気後れしてそれは言えなかった。

 さっき言った左の部屋では、現地に住まう通訳のRさんがおばさんと話し込んでいる。何を話しているかは勿論分からない。Rさんは先ほどまで、何か大きい記録帖のようなノートに、書き物をしていた。それが、日記のもとなんだろうか。部屋の片隅にはドアがあり、その中の物置、は唯一布で外界から隠されていて、通信するための電子機器などがはいっている。

 左の部屋のもっと左端、ほぼ外みたいな部屋もあって、服が沢山置いてある。ここは一応交換をする商店だから、ここが一番店と言えば店っぽいが、持て余しているようだ。真ん中に足ふみミシンがあって、そこによく犬が寝そべっている。

 利き目が右だからか、見ていると、視線はいつも、左へ、左へとすべっていく。すると、もっと左の部屋があって、そこまでいくともう、だいたい外だった。人たちはそこで借りてきた器具で食事をし、その地域特有のお茶をつくり、掃除をし、遊んだり、打ち合わせをしたりする。たまに、お婆さんが集まって、そこにある食器でお茶を囲んだりしている。子だけじゃなくて大きい人たちも、竹のテラスに寄りかかり、世間話をしている。

 そうして1日に数回、この部屋の調度を集める物々交換のため、店員と子どもたちは町を練り歩く。子どもたち、時に大人や青年を交えて、「・・・、・・・」「・・・、・・」と節をつけて呼びかける。


 セルフフィクション。そんな曖昧な感じで、あなたの記憶が戻ってくる。思い出す時って、時間がいる。自分の声を引き戻している。それは他人の声を思い出すのにも似ている。だいたい書くものも、おそらく、考えて話すということも、そこに実際に起きたこととは異なるし、ある種の嘘をはらんでいる。具象絵画というのが、絵具というものを使った抽象であるのと同じように。

 あなたは時折そうやって、あてどもなく歩いていて、ときに座って、ただただそれを繰り返して。リズムの中で何かに気づいたり、見えてくる何かがあった。そういう時間があった。座って考えていると、急にしとしとと雨が降り始めるから、あの村みたいだなと思う。けれど村とちがって、ずいぶん湿り気のある雨だ。気持ちいいかもしれない。でももう帰ろうかと感じて、また歩き始める。しかし、そもそもどうして、あの八子さんの商店に行ったのだったか。かれと会ったのはとある川で、そのときも川で何かをしていて、少し言葉を交わしたくらいだった。あの作品、あのふるまいに惹かれたというのもそうだし、お休みに旅をしたかったというのも覚えている……、そんなことを考えながら、あなたはそのまま歩いて、いつか道を折れて、家路について、家の階段を上りドアを開ける。まだ夜がつづいていて、そこにも三つの部屋がある。右の部屋をちらりと見て、真ん中の部屋にすわる。左の方に視線をやるとそこは和室で、そろそろ冬も近いから、コタツがでている。

 コタツの中には、わたしがいる。

 わたしは本を読んでいるような、携帯電話をながめているような、ぼんやりしているような感じ。ただいま、と声をかけると「ああ」とうなずく。あなたは、わたしという人とどのように会話をしているのか、いつもどうやってコミュニケーションしているのか、不思議に思う。一番最初に交わした会話は何だったか。そこからすべては続いているはずなのに、どうも内容は曖昧だ。この部屋はずいぶん静かなもので、ときに二人は画面上の文字だけでやりとりをして、そのまま寝てしまう。どうしてここではあの町のように、人がたくさん行き来をしていないのか。

 人と話すということとは、なんだろう。だいたい彼らは、どのように、何を話していたのか、それであなたは、何を話したのだったか、あまり記憶していない。言語が分からなかったから、内容がわからなかったから? でも、普段はなされている大体も、大抵は意味なんてないし、内容もない。言葉になる、ならない。それは人が、あとから決めたことなんだろう。そんなことの手前に、何かがあった。ただ彼らは、あなたに興味を抱いていて、何をそんなに考えているの、何をそんなに観察しているの、そんなことを考えてあなたの瞳を覗き込んでいるようだった。

「ねえ聞いて、詐欺にあったんやけど!」そんなことを急にいう。


 人は記憶したことを全て脳に刻んでいるという。音や匂いなんていうのもそうで、全て蓄積されていて、何かの刺激でフラッシュバックしてくるみたいだ。その方が面白いっていうのに、どうして言葉に頼るのだろうか。これは記録をしていく道具や装置なのだろうか。

 だからその中にわたしはいる。あるいは、わたしはいない。

 そうしたあなたとわたしの部屋のちょうど向かいには、まるで鏡写しみたいに似た部屋が、アパートの外階段をはさんで、ある。同じ二階建てのアパートで、そこは、そこだけ独立して二階になっている。ドアを開けるとちょうど、正対している同じ高さくらいに同じくらいのドアがある。その部屋の二人もコタツに入っていて、昔の記憶や最近の出来事について、語っている。曰く、画面ごしの打合せが最近になって増えたから、自分の顔ばかり見るようになった。しかも動いている。そんなことはこれまでなかった。見ていると思い出される人の顔かたちがある。それは母だった、だから母に「こんにちは」と声をかけてみる。


 そうしてまた、日をかえて、八子さんに会う日があった。


2021年4月27日火曜日

めぬけvol04 穴の開いた春の日記 穴のあいた98ページ


歯が痛い。あと気圧で、左の頭が痛い。

とくに昨日はひどかった。

偏頭痛っていつ起こるか分からないが、

きっと気圧や色々な神経の連動で起きているはず。

歯の神経が痛んでいるのか偏頭痛が反響しているのか、

夜になっても全然わからぬ。

時折あるが、こんな日は珍しい。


めぬけについて書こうと思ったらそんな感じで、

気づけば『不良少年とキリスト』を青空文庫で読みながら居眠りしている。

歯が痛いとなるとつい読んでしまう。

そうして翌日になる。

こう色々な部位が、痛くなったら治って、次にまわって。

痛いものだから、ちょっと出歩くのはよして、

部屋と部屋の間を出歩いている。

痛みがあちらからこちらへ移り押し出されていくように、

私も部屋から部屋へと押し出されて、

うろうろと行ったり来たりしている。

こうしてだんだんと歳をとっていくのだろうか。

嫌だなあ


『創作と画 めぬけ』という同人誌をシャラポア野口とサノちゃんと(途中脱退)、数年前から作っているけど、先週に、ひさしぶりにつくった。ハンドソープレスで刷っている。

農家にたとえたら、

大量生産の農園なんかでなく、家庭菜園のような場で、

その時その時に集まったものを、ただ

「締め切りがないと、書かないよなあ。でも、書きたいんだよな」

そうした思いのもと、だいたい身内のためだけに、

作っている。

主には京都・東京の音楽界隈、すこし美術界隈、出版界隈、

その時々(だいたいは酒か音楽の場)で会った人と。


そうしていると、時折、外から「面白いね」という声がするし、

知らない人がふいに買ってくれたりする。

それで人と人(こちら側と、読者さん)がつながっていくのは、

面白いこと。


第一、CDと配信がそうであるように、モノを残していかないと、

意外とすぐに忘れてしまう。

そんなに大事じゃないことは特に。

しかし、ピュアなものづくりというのか、つくった野菜を交換するみたいなことは大事じゃないかな。

何なのか。また、たまに出していくのだろう。やればやるほど、ざくっとした紙束になっていく。しかし紙束というのが、いい。


今回も面白くなって、よかったです。

BONUS TRACK、ありがとうございました。



a magazine めぬけ Vol.04

〜穴の開いた春の日記〜


▼内容

こちらです。人々の、テキストとビジュアル。2020年にもらったもの(当初のテーマは「街の声」)と、この4月にもらったものとで、けっこうボリューミーです。表紙は平木元くん いつもありがとう。何だか、素敵です。



▼販売

日程未定ですが、そのうち関係のある店舗や、ネットショップ等で販売します。

が、いつになるか分からないので、欲しい!という人は、k.osawa.0128(アット)gmail.com 迄メールください。

それか、会うときがあれば持っていきますので、おっしゃって下さい。

私はだいたい1冊は持って歩いているはずです。


▼追記

初回作成分、

98ページが、面つけデータの作成ミスにより、

93ページが2回繰り返していました。

ごめんなさい。

こちらが該当の見開きを直したものです。





*参加者の皆様へ

まだ渡せてない方々、会った時にお渡しします!

遠方の方へは送りますが、また連絡します!!!

ありがとうございました〜。


2021年4月11日日曜日

私たちは、どうしてこんなにかわいいのか。(ちいかわについて 他)


僕らの心のなかに、いつからかある生き物が棲みついている。白くて、もふもふしており、小さくて、かわいい。ほぼ毎日更新される彼らにもう、目が離せない。

身近なひとに聞いてみると、彼らもちいかわの一挙手一投足が気になって仕方がないという。新しいステップを踏んだ。ヘンな生き物と仲良くなった。と思えば悪い生き物だったから、帰って泣いた。かれは検定に落ちて泣いた。頑張ってラーメンを食べた。とか、そうした話題はつきない。

職場でも同様で、私がちいかわ好きなものだから、皆気にして、「ちいかわカフェ」があるとか、ちいかわが転んだ、とか話題を教えてくれる。それで数人で、シンエヴァの話をする代わりに、新しいちいかわの話をしている。中には「ちい」と「かわ」の話だと思っていた、という人もいる。それもそれで一つの解釈なんだろう。


ふとしたきっかけで会った写真家と話していると、「ちいかわって僕らのことですよね」と話す。40代のオジサンが、気持ち悪いことを平気で言う。と思ったけれど、腑に落ちる部分がある。お寿司を買って楽しみに帰ったら転んじゃって、泣いてしまうなんて、どうも懐かしい気分になるし、それがそのまま続いているような気がしてしまう。続いているというのは、小さい頃の、何か小さな甘い傷のような気分をまたほじくっているような気がするのだろうか。そのへんを考えていくと、何かの学問や思想にいきつく。たとえば何かを甘噛みされると身体が悦ぶといった話題にも通じるのだろうか。違うか。


それで気がつくのは、どうも30-40代くらいの男性が、特に熱心にちいかわを追っているんじゃないかと思われる。ごく個人的な観測なので、実際のところは分からない。ただ、たとえば新作が投稿されるたびに膨大に積み重ねられるTwitterのコメント欄。ちいかわちゃんに呼びかける人。あるいは過去のイメージを補足として出しながら、その次の展開を予測する人。ハチワレちゃんやウサギのディテールを愛でる人。そうしたところには、彼らはいない。ただ黙々と、日々見守るだけ。そう共感は、自分だけができればいい。中には、自分の子どもの幼い頃を重ねてみる人もいるのかもしれない。けれどもそうじゃないな、やはり自分を見返しているんじゃないか、大人になって振り返る、小さい子としての自分を。見守って、好きな場面を写真に保存して、時折、見返してみる。かわいい……。あとスタンプも、かわいい…。




ちいかわについて考えていることを、書きたいと思って、最近ふれていないブログを書いてみている。

ブログって全然見かけないけれど、けっこう好きではある。自分が見かけないということは、この投稿もさして見られないのだろう。


告知。

https://note.com/bonustrack_skz/n/n1d703d66e568

このようなイベントに同人誌「めぬけ」の新しいのや、手持ちの本、身近な人が最近つくったものなどを、売ります。

よかったらお運びください。

ボーナストラックにて4/24、本のイベントです。




 

2020年4月14日火曜日

近況報告


 その先に飛び切りの狂気があるぞ、と聞かされて私はベランダで過ごしていた。
 やがて狂気に出会うのでは、と半ばこわく、半ばわくわくしながら過ごしていた。それはあるいは、誰かのベランダかもしれない。私がしているのは、そこに出してあるアウトドア用の折りたたみ椅子に座って、本を読んだり、イケアのティーポットにいれたお茶を飲んだり。
 その先には何があるのだろう。ぼんやりと考えている。

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 その先では私が狂気について考えていた。
 ほんとうの狂気を見せてやろう。生半可な狂気ばかり見せているやつらに対して。そう考えたものの、いざほんとうの狂気となると……、それは、誰が見ても面白いものではないだろう。というか、見る人のことを考える時点で、もういけない。といって、部屋の中へ入ってしまいます。


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 たとえば雲を見ていても、雲のその先はどうなっているのだろうと思う。昔の人は、その先にもののけがいる。あるいはその先に知らない国エル・ドラドがあると考える。果たしてそれは、どのような。
 けれどかんがえようによってはこのベランダを仕切るツイタテや、ベランダの下の部分……塀のようになっているところの先ですら、意外と未知だ。そこで子が遊ぶ一方で、もしかしたら、そこだけで育てられている子もいるだろう、あるいは何か、調教しているとか、変態的な試み。いけない。危うい方向に思いがそれていく。いけないことはないのだけど、私の考えたいこととは違う気がする。
 スーパーにでもいこうか。


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 だんだんと雲が厚くなってくいく。小さな羽虫が飛んでくる。鳥も高度を落として、私の頭のすぐ上をいく。わあ、声を出して驚いてしまった。小柄なカラスだった。雨が降るのだろうか。
 そう考える私の下半身は裸だ。幸いにして最上階で、近くにもっと高い建物のないこの部屋では、上から不意にのぞかれる不安はない。もちろん下からだと壁にさえぎられて見えないものだろう。安心して、露出しながら道ゆく人を観察できるようになっている。それによって、日常と触れながら非日常をしており、性的興奮を得られる。万が一ドローンなどが飛んできた時に顔が割れないように、サングラスをかけて、双眼鏡で道や、低めの家のベランダや家をのぞいている。
 つまり、全身を見られなければ大丈夫だろうと思っている。唯一気がかりがるとしたら、隣の部屋のベランダからだろうか。何かのひょうしでちらり、私と私の生肌が垣間見えてしまう可能性はある。しかし、それくらいなら又、面白みだろう。私は深く考えていない。第一その人とは顔を合わせたこともないし、想像力ははたらかない。ベランダの間のツイタテというのはうすいから、逆にお互い、ふみこえないように気にしてしまうものだ。


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 私はアパートの階段を降って、スーパーに行くことにした。家の前の駐車場で、男がタバコをすっている。砂利がしかれた地面の上で、斜め上を眺めながらすっている。小柄ながらバシッとした顔立ちをしている、北欧の映画に出てくる人のようだ。私は、黒い布のマスクをしていた。彼は、何もつけていない。そんな彼をいぶかるような目で一瞬見ていたことに、通り過ぎてから気がついた。体温はどうなのだろうか。咳やくしゃみはしていないか。目つきはどうだろう。そんな私の視線を察してか、彼も私の方を眺めやる。空中で目が合う。衝突する。マスクをしていない彼も少し、気まずそうに感じられた。


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 私は楽しかったベランダ活動を一度よして、部屋に戻ってきていた。戻ると、もう下の服はきている。人に見られないのなら、外気に接していないのなら、こんな落ち着かない格好をつづけていても仕方がないと思う。淡々とイスにすわって、パソコンをさわる。その先には、幅広い世界が広がっているように感じられる。


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 スーパーで私は、カゴを持って、幅広い世界に接している。その通路を行く人々の顔をのぞき見ては、顔色、血色、マスクの有無などを見据え判断を繰り返している。この人はどうか。この子はどうだ。あのオジサンは、じっと納豆の棚を見つめている。あの人は、出汁パックを見つめている。私は何をしているのだろうか。早くあのベランダへ戻ろうと思う。私が卵をさがして一回りしてきたあともオジサンは納豆を見つめている。


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 私はまた部屋からベランダにでて、今度は小声でうたを歌ってみている。部屋のプレイヤーから現代音楽を大きめのボリュームで流している。聞こえる人によってそれはノイズになるかもしれない。しかし、その曲を知っている人からしたら、何か楽しい気分にもなるだろう。人が出す色々な音をサンプリングしたその曲は、不思議と平原をフィールドレコーディングしたかのように伸びやかで心地いい。私はその曲に合わせて、なにを歌うのだろう。バカラック? ほそぼそと口ずさんでみる。言うまでもなく下は裸で、内海が外界と直に触れている。


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 スーパーをひとしきり周り買い物を終えて戻ってくると、どうも同じ階で音がしている。私が好きな音楽に似ている。人の声、唇を震わす音、叫び。そうしたノイズをサンプリングして、精妙なリズムをつけている。ゆるくなったり、刻んだり。ようするにメリハリのついたカオスをしている。時に、ベランダに干した布団を叩くような音も。そうした音楽が街の空気を包んで実に気持ちいい音をしている。何なのだろう。私がこの音楽を流していたわけでもないし、はて、近所の人が流している音なのかもしれない。「お隣さん」だろうか。まだ顔を合わせたこともないし、いったい存在しているのかも、知らなかったけれど。私はすこし上機嫌で、部屋のドアを開け、買ってきた袋を床に置く。


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 隣人が帰ってきたらしい。その人の鼻歌が聞こえたような気がする。それが今流している曲に呼応していた気がするけれど、これは気のせいだろう。私が流している曲はあるアメリカの60年代、アングラな映画のサントラにひっそりと使われたアングラな曲で、誰も気に留めないようなものだ。いや、そこに気を留めて愛好する人たちはたしかにいるのだけれど、ほぼほぼ身近にはそういう人はいないだろう。それはちょうど、あるシーンで路上を行く主人公の背後で流れている曲、それをバックにシーンが切り替わるときに、主人公の妹がひそやかに口ずさむ鼻歌だった。それに合わせるかのように、鼻歌がしていた。ような気がしたが、まあ気のせいだろう。




 今日は、雨がやんだあとだからか、あまり洗濯ものは出ていない。まだ曇っていて、うすら寒い。いつも子供を遊ばせている大きなベランダの家族もまだ出てこない。そもそも、ベランダで過ごす人は意外と少ない。洗濯か、たまにタバコを喫う人か、植物に水をやる人。というのもそんなにいない。私はこんなに満喫しているというのに……
 あ、いけない。イスが濡れていたので、ズボンのお尻が湿ってきた。
 子どもが遠くで遊ぶ声がしている。私はズボンを履き替えてきて、イスにタオルをしいて座る。


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 私も遅ればせながらベランダで活動をはじめた。空は、雲がかぶさってきていて、また雨が降りそうになってきている。遠くの大きめのベランダに、子と母がでてきている。ベランダで遊んでいるのだろう。その手前の景色では、洗濯物を取り込む人や、わざわざベランダに出てきて、雨をたしかめる人ら。人とツイタテが、点と線のようになってくる。人と人とが、そうやって区切られている。雲はどんどん厚ぼったくなってくる。


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 日が暮れていく外を眺めていると、遠くの部屋で灯りがともってくる。もう少し先の高いところにある部屋は、いつも2時や3時までず、こうこうと明るい。すこし赤や青の照明なんかもともっている。そこには、私の好きなミュージシャンのK氏が住んでいるんじゃないかと勝手に想像している。ふつうのベランダの3倍くらいの長さで、ゆったりしている。バスタオルなんかが、タオル掛けにかかっている。時折ベランダ越しに、ひとの影が動く。一人か二人。子どものいない夜型の夫婦が過ごしているのかなと思う。氏にも、子はいないから。


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 薄闇のベランダの先には、踊り場でピアノを弾く彼がいた。彼は私の友人でミュージシャンなのだが、さいきんピアノに凝っている。その踊り場にはピアノが放置されているから、弾いてみたらと彼にすすめたのだった。隣のビルのむき出しになった階段の踊り場だから、こうして過ごしていると時折聞こえてくる。踊り場のアップライトピアノを彼は淡々とひいている。頭の中にある音をなぞるように。ジャズなのだろう。ゆっくりとグルーブがある。もちろん、そんな時でも私は下半身を露出している。これは単なる癖みたいになってきたのだけど、ふだん外気に触れない内界というか身体をさらすのは、感覚を保つために大切なことだろう。
 ないとは思うが、もしお隣さんが同じ向きで、踊り場のピアノを聞いていたとしたら、ツイタテをはさんで、私の尻を見つめている格好になる。おや、コーヒーの香りがしてきている。

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 ベランダの先の方から、ときにピアノの軽快な音が聞こえる。あれはきっと、セロニアス・モンクが好きな人のピアノだろう。上手ではないけれど、呼吸に、弾き方に、佇まいがある。私はコーヒーをいれて、ツイタテのその先、となりのビルあたりで奏でられるその音にゆっくりと耳をすます。近所の子の声、車やバイクの音、風の音。そうした音とともにうたは流れる。
 思えばそうゆううたが聞きたいから、私はここにいるのかもしれない。ここにいるけど、ここにいないような気分。それを一心に求めることで、私は変わりたいのかも。でもそこまでぶっとぶ気はしないから、ここに留まっている。

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 本当の狂気のことを忘れてきている。ここにきて、ツイタテというのが逆に気になってくる。あれは細く薄く、有事の際にはこえていけるように作られている。やろうと思ったら、いくらでもぬけられる壁。だから逆に皆んな気を使って、その先にふれないようにしている壁。少し乗り出せば、あちらの内臓に触れることができるのかもしれない。 
 ツイタテといえば、思い出すことがある。ある街角にあったツイタテをふと見ると、何やら陰から男が気まずそうにでてくる。ズボンのチャックをあげながら。何していたのだろう。小便か、あるいは自慰行為か。もしくは、一発何かをきめてきたのではなかろうか。その先に、相手の方がいて。と思いながら近くを行きすぎると、何のことはない、喫煙所だった。
 人と人はそうやって区切られている。線で。あるいは面で。あるいは箱で。そのうえに夜の闇がかぶさってくる。と、それに呼応するようにだんだんとピアノのボリュームが大きくなってくる。近所からなにか言われるんじゃなかろうか、とはらはらするものの。近所のいえはけっこう、この病の騒動をうけて、人が減ってきている。