その灰皿のあたりから見えるのは、ホームの、電車の乗り口じゃない方の端。ひとつ信号の先に、電車が入っていく、出て行く。何かさわやかで大きな木があったり、点滅している黄信号、その先に踏切。たまに、赤いジャケトを着たおじさんがうろついている。
彼は、自主的に路上喫煙、ポイ捨てを追究しているらしい。現場を見た事はないけれど、そういうことをする人を取り締まっているらしい。
しかし、最近はよく見ない。
吐きそうになるときは、いつもある夜を思い出す。一月くらい前か、昼から飲んでいたら夜新宿のいずこで また人と会ってまた飲んでワインも2、3杯のんで、同じ電車の人がいたので彼と走って駆け乗って、立ったまんま映画の話なんかしながらその駅について、同じ灰皿がある辺りでばあー、ばあーっと吐いた。ほとんどワインであとは何かカケラのようなのがそこかしこに散らまる、近間にいた猫も散らまる。
それで次の日うろんと朝歩いていたら吐いた箇所がアスファルトに染みになっている。それから毎朝そのシミを確認していたが最近はもう見ない。
ところで、文章ってのはもっと自由で素敵な可能性を持っているだろうと最近よく思う。文学、、、最近美術写真映像いろんなものがつい文学してしまってるなと思うが、文章はそれをもっと乗り越えて、そうなんと言ったらいいか、読んでないけど、ピンチョンの小説のように自由なものではないでしょう、か、ね。頑張らなくちゃいけない。
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