2020年4月14日火曜日

近況報告


 その先に飛び切りの狂気があるぞ、と聞かされて私はベランダで過ごしていた。
 やがて狂気に出会うのでは、と半ばこわく、半ばわくわくしながら過ごしていた。それはあるいは、誰かのベランダかもしれない。私がしているのは、そこに出してあるアウトドア用の折りたたみ椅子に座って、本を読んだり、イケアのティーポットにいれたお茶を飲んだり。
 その先には何があるのだろう。ぼんやりと考えている。

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 その先では私が狂気について考えていた。
 ほんとうの狂気を見せてやろう。生半可な狂気ばかり見せているやつらに対して。そう考えたものの、いざほんとうの狂気となると……、それは、誰が見ても面白いものではないだろう。というか、見る人のことを考える時点で、もういけない。といって、部屋の中へ入ってしまいます。


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 たとえば雲を見ていても、雲のその先はどうなっているのだろうと思う。昔の人は、その先にもののけがいる。あるいはその先に知らない国エル・ドラドがあると考える。果たしてそれは、どのような。
 けれどかんがえようによってはこのベランダを仕切るツイタテや、ベランダの下の部分……塀のようになっているところの先ですら、意外と未知だ。そこで子が遊ぶ一方で、もしかしたら、そこだけで育てられている子もいるだろう、あるいは何か、調教しているとか、変態的な試み。いけない。危うい方向に思いがそれていく。いけないことはないのだけど、私の考えたいこととは違う気がする。
 スーパーにでもいこうか。


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 だんだんと雲が厚くなってくいく。小さな羽虫が飛んでくる。鳥も高度を落として、私の頭のすぐ上をいく。わあ、声を出して驚いてしまった。小柄なカラスだった。雨が降るのだろうか。
 そう考える私の下半身は裸だ。幸いにして最上階で、近くにもっと高い建物のないこの部屋では、上から不意にのぞかれる不安はない。もちろん下からだと壁にさえぎられて見えないものだろう。安心して、露出しながら道ゆく人を観察できるようになっている。それによって、日常と触れながら非日常をしており、性的興奮を得られる。万が一ドローンなどが飛んできた時に顔が割れないように、サングラスをかけて、双眼鏡で道や、低めの家のベランダや家をのぞいている。
 つまり、全身を見られなければ大丈夫だろうと思っている。唯一気がかりがるとしたら、隣の部屋のベランダからだろうか。何かのひょうしでちらり、私と私の生肌が垣間見えてしまう可能性はある。しかし、それくらいなら又、面白みだろう。私は深く考えていない。第一その人とは顔を合わせたこともないし、想像力ははたらかない。ベランダの間のツイタテというのはうすいから、逆にお互い、ふみこえないように気にしてしまうものだ。


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 私はアパートの階段を降って、スーパーに行くことにした。家の前の駐車場で、男がタバコをすっている。砂利がしかれた地面の上で、斜め上を眺めながらすっている。小柄ながらバシッとした顔立ちをしている、北欧の映画に出てくる人のようだ。私は、黒い布のマスクをしていた。彼は、何もつけていない。そんな彼をいぶかるような目で一瞬見ていたことに、通り過ぎてから気がついた。体温はどうなのだろうか。咳やくしゃみはしていないか。目つきはどうだろう。そんな私の視線を察してか、彼も私の方を眺めやる。空中で目が合う。衝突する。マスクをしていない彼も少し、気まずそうに感じられた。


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 私は楽しかったベランダ活動を一度よして、部屋に戻ってきていた。戻ると、もう下の服はきている。人に見られないのなら、外気に接していないのなら、こんな落ち着かない格好をつづけていても仕方がないと思う。淡々とイスにすわって、パソコンをさわる。その先には、幅広い世界が広がっているように感じられる。


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 スーパーで私は、カゴを持って、幅広い世界に接している。その通路を行く人々の顔をのぞき見ては、顔色、血色、マスクの有無などを見据え判断を繰り返している。この人はどうか。この子はどうだ。あのオジサンは、じっと納豆の棚を見つめている。あの人は、出汁パックを見つめている。私は何をしているのだろうか。早くあのベランダへ戻ろうと思う。私が卵をさがして一回りしてきたあともオジサンは納豆を見つめている。


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 私はまた部屋からベランダにでて、今度は小声でうたを歌ってみている。部屋のプレイヤーから現代音楽を大きめのボリュームで流している。聞こえる人によってそれはノイズになるかもしれない。しかし、その曲を知っている人からしたら、何か楽しい気分にもなるだろう。人が出す色々な音をサンプリングしたその曲は、不思議と平原をフィールドレコーディングしたかのように伸びやかで心地いい。私はその曲に合わせて、なにを歌うのだろう。バカラック? ほそぼそと口ずさんでみる。言うまでもなく下は裸で、内海が外界と直に触れている。


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 スーパーをひとしきり周り買い物を終えて戻ってくると、どうも同じ階で音がしている。私が好きな音楽に似ている。人の声、唇を震わす音、叫び。そうしたノイズをサンプリングして、精妙なリズムをつけている。ゆるくなったり、刻んだり。ようするにメリハリのついたカオスをしている。時に、ベランダに干した布団を叩くような音も。そうした音楽が街の空気を包んで実に気持ちいい音をしている。何なのだろう。私がこの音楽を流していたわけでもないし、はて、近所の人が流している音なのかもしれない。「お隣さん」だろうか。まだ顔を合わせたこともないし、いったい存在しているのかも、知らなかったけれど。私はすこし上機嫌で、部屋のドアを開け、買ってきた袋を床に置く。


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 隣人が帰ってきたらしい。その人の鼻歌が聞こえたような気がする。それが今流している曲に呼応していた気がするけれど、これは気のせいだろう。私が流している曲はあるアメリカの60年代、アングラな映画のサントラにひっそりと使われたアングラな曲で、誰も気に留めないようなものだ。いや、そこに気を留めて愛好する人たちはたしかにいるのだけれど、ほぼほぼ身近にはそういう人はいないだろう。それはちょうど、あるシーンで路上を行く主人公の背後で流れている曲、それをバックにシーンが切り替わるときに、主人公の妹がひそやかに口ずさむ鼻歌だった。それに合わせるかのように、鼻歌がしていた。ような気がしたが、まあ気のせいだろう。




 今日は、雨がやんだあとだからか、あまり洗濯ものは出ていない。まだ曇っていて、うすら寒い。いつも子供を遊ばせている大きなベランダの家族もまだ出てこない。そもそも、ベランダで過ごす人は意外と少ない。洗濯か、たまにタバコを喫う人か、植物に水をやる人。というのもそんなにいない。私はこんなに満喫しているというのに……
 あ、いけない。イスが濡れていたので、ズボンのお尻が湿ってきた。
 子どもが遠くで遊ぶ声がしている。私はズボンを履き替えてきて、イスにタオルをしいて座る。


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 私も遅ればせながらベランダで活動をはじめた。空は、雲がかぶさってきていて、また雨が降りそうになってきている。遠くの大きめのベランダに、子と母がでてきている。ベランダで遊んでいるのだろう。その手前の景色では、洗濯物を取り込む人や、わざわざベランダに出てきて、雨をたしかめる人ら。人とツイタテが、点と線のようになってくる。人と人とが、そうやって区切られている。雲はどんどん厚ぼったくなってくる。


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 日が暮れていく外を眺めていると、遠くの部屋で灯りがともってくる。もう少し先の高いところにある部屋は、いつも2時や3時までず、こうこうと明るい。すこし赤や青の照明なんかもともっている。そこには、私の好きなミュージシャンのK氏が住んでいるんじゃないかと勝手に想像している。ふつうのベランダの3倍くらいの長さで、ゆったりしている。バスタオルなんかが、タオル掛けにかかっている。時折ベランダ越しに、ひとの影が動く。一人か二人。子どものいない夜型の夫婦が過ごしているのかなと思う。氏にも、子はいないから。


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 薄闇のベランダの先には、踊り場でピアノを弾く彼がいた。彼は私の友人でミュージシャンなのだが、さいきんピアノに凝っている。その踊り場にはピアノが放置されているから、弾いてみたらと彼にすすめたのだった。隣のビルのむき出しになった階段の踊り場だから、こうして過ごしていると時折聞こえてくる。踊り場のアップライトピアノを彼は淡々とひいている。頭の中にある音をなぞるように。ジャズなのだろう。ゆっくりとグルーブがある。もちろん、そんな時でも私は下半身を露出している。これは単なる癖みたいになってきたのだけど、ふだん外気に触れない内界というか身体をさらすのは、感覚を保つために大切なことだろう。
 ないとは思うが、もしお隣さんが同じ向きで、踊り場のピアノを聞いていたとしたら、ツイタテをはさんで、私の尻を見つめている格好になる。おや、コーヒーの香りがしてきている。

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 ベランダの先の方から、ときにピアノの軽快な音が聞こえる。あれはきっと、セロニアス・モンクが好きな人のピアノだろう。上手ではないけれど、呼吸に、弾き方に、佇まいがある。私はコーヒーをいれて、ツイタテのその先、となりのビルあたりで奏でられるその音にゆっくりと耳をすます。近所の子の声、車やバイクの音、風の音。そうした音とともにうたは流れる。
 思えばそうゆううたが聞きたいから、私はここにいるのかもしれない。ここにいるけど、ここにいないような気分。それを一心に求めることで、私は変わりたいのかも。でもそこまでぶっとぶ気はしないから、ここに留まっている。

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 本当の狂気のことを忘れてきている。ここにきて、ツイタテというのが逆に気になってくる。あれは細く薄く、有事の際にはこえていけるように作られている。やろうと思ったら、いくらでもぬけられる壁。だから逆に皆んな気を使って、その先にふれないようにしている壁。少し乗り出せば、あちらの内臓に触れることができるのかもしれない。 
 ツイタテといえば、思い出すことがある。ある街角にあったツイタテをふと見ると、何やら陰から男が気まずそうにでてくる。ズボンのチャックをあげながら。何していたのだろう。小便か、あるいは自慰行為か。もしくは、一発何かをきめてきたのではなかろうか。その先に、相手の方がいて。と思いながら近くを行きすぎると、何のことはない、喫煙所だった。
 人と人はそうやって区切られている。線で。あるいは面で。あるいは箱で。そのうえに夜の闇がかぶさってくる。と、それに呼応するようにだんだんとピアノのボリュームが大きくなってくる。近所からなにか言われるんじゃなかろうか、とはらはらするものの。近所のいえはけっこう、この病の騒動をうけて、人が減ってきている。



2020年2月2日日曜日

DAYS STORIES

日々どんなだろう。
どうして過ごしているだろう。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。
忙しくしているのだろうか。
人と会っていないと、人がどうしているのか、想像力が欠けてくる。
結婚したり別れていたり、子が生まれたりしているのだという。
そうゆうことを、気にしなくなってくる、つまり自分中心になってくる。
忙しくしていると、周りが見えなくなってくる、
こう(目線がせばまるというジェスチャーをして)なってくる。
そうでしょう。

さいきん、テッド・チャンを読んでいる。評価がすごいのはさておいて、ほんとうに面白い。本を読む楽しさを思い出させてくれる。何だか、考えていたこと色んなことを、言われてしまった気分だ。すごいものだと思う。
ここまですごいものがあって、一つ思うのは、ストーリーというもの。これは、なにかを語るためのすごく分かりやすい手段で。だいたい、抽象的に思える作品でも、それは絵画や音楽もそうだけど、なんらかのストーリー、抑揚、あがりさがりメリハリ、そうしたことが意識されている。それに至るまでの文脈というのもそうだ。
それはきっと、人の歴史のなかで自然とそうなっている、馴染む方法として、語られている。継がれている。
文脈とか、順番とか、そうゆうものから私たちは自由になれないのか。あるいは、人に伝えるということが前提なわけだから、必然的なのか。
なにか、新しい言い方はないのだろうか。
しかしテッドチャンの物語に、そうゆうところに触れる部分はあるな。
ではなく詩、とか、画、といった形式で、異なる言い方はないのだろうか。
ほら、聞いてごらん、アイラーのサックス。あれは、なにだろう。その人そのもの。その人のその時間そのもの。
そうして音楽に接近していく。うーん。
音楽的なものと、物語的なもの。時間で伝えるものと、感受する時間は気にしないもの。感覚とロジック。韻文と散文。
どちらでもない言い方はないのかな。
面白ければいいじゃない、すごいと思えたら。
それはそれでそうなのだけど、そうじゃないところをもう少し考えたい。
ライフ・ストーリーではないか、とちょっと思った。つまり、生活の芸術化ではなく芸術の生活化……という話にも近づいていくけれど、自分の時間そのものを作品とする、とか。
が、それもどうだろう。もう少し考えていきたい。
またひとつの流れとして、いわゆる“クリエイティブ”というものでみられる文体にも反発心がある。とても便利で分かりやすいけれど。
分かりやすければよいのか……、と。
しかし分かりやすいものをつくる人はすごい。
けれど、考えているうちに締切がくる、締切がないと人はものをつくらない。
締切なしでものをつくり続けられる人はすごい。
そんなことを一人で考えながら、私はまたセロリを煮ている。
すこし端折った物言いをしている。





「印象派#2」
コンセプトと声 大沢 
撮影構成編集 阿部隆大
2019.1.25


ブログを書いていないから、ここ1年のことを振り返っておこうと思った。だいたい、昨年初めの、今成哲夫のCD以来なにも書いていない。
阿部隆大の展示の告知までか。
http://howlmag.blogspot.com/2019/01/blog-post.html


秋以降は、完全にピストルで仕事ばかりしていた。
たいへんだったけど、面白かったです。
ここでは、仕事以外をふりかえる。
なにだったか


(2018

・アオケンさんの個展企画協力 於 Gallery HANA SHIMOKITAZAWA
「横スクロール」
「男の抽象、女の具象ーー青山健一・池間由布子 ライブ」
https://www.g-hana.jp/2019/06/190628/

展示の企画的なことは、いつだってやりたい。





・イベント「STRONG FOLK」於 下北沢ケージ
https://strongfolk0916cage.wixsite.com/mysite
西村明展さんが素敵な写真を撮ってくれたけれどアップできていない。
やりだすと没頭してしまう。イベントはたいへん。瞬間芸術。
まあ最高でした。




・チラシをつくったり

BUSHBASH NuSpray 8.15

危うし!吉田寮!!勝手に応援祭り 東京篇 11.3 BUSHBASH


  


・ZINEのレイアウトをしたり

HAND SAW PRESS + シャラポア野口 ゆる飲み読書会
『「現場からの治療論」という物語』編
https://twitter.com/ashiyuu/status/1211897680202366977?s=20




・自作もすこし

「画廊新聞-平成-展」於 新宿眼科画廊
https://www.gankagarou.com/s201904heiseiten

TOMORROW ワインラベル展




(2019
上記動画「印象派#2」
ぼくが酔っ払って語った音声をもとに、
阿部さんが作ってくれた映像作品。
於 美學校の「現代アートの勝手口」修了展
「ライフイズエクストリームティンダー」
https://bigakko.jp/news/2020/katteguchi_tokubetu_exhibition

いい折に、リミックスしたものをつくってみたい。