2023年1月30日月曜日

窓から(1)

今日はここは真っ暗で、少し先に街灯がひかっている。外灯が照らすのは小路。そこは駅のあたりからなんとなくナナメにつづく小さな路で、通勤通学、酔ったあとの喫煙路として使う人が多い。絶妙に、遊べそうで遊べなさそうな遊歩道になっていると思う。今も、大声でうたいながら自転車で駆けゆく人がいるのだけど、それって近隣的にはやややかましいから、どうなのと感じる。ああいうのは、何。デジタルな耳栓をして、自分の音だけを聞いているのか、結構あぶないし、もっとかそけき音を聞く方が楽しいのじゃないかなと感じる。

小道にはしかし色々なことがあって、気づくとそこにいる若いカップルが座って、話し込んでいたりする。話し込んでいる合間にスマホを見ては、誰それの近況を話したりしていて、話自体は一向に進まない。あるいはどうもパパ活みたいな二人連れが行き来したりしている。まあ、それはさておいて。

街灯の手前には、庭がある。大家さんが丹精して、何か色んな樹木が育って独特な生態系をしている。今は冬だから葉っぱが落ちて景色がまっすぐ見えてしまうけれど春や夏にはもっと鬱蒼として、先が見えない(鬱蒼という文字は久しぶりに見るけれどすごい)。

生態系もすこし豊かなのだろう。街中ではあまり見かけない鳥がよく行ったり来たりしている。鳥を見るたび名前を調べてみようとするけれど、日々の些末な事ごとに邪魔をされて、気づけば飛び去っているみたいだ。チチュ、チチュ……などと、声を交わして、やってきてはどこかへ行く。

その庭はもうきっと30年やそこら、大家さんが丹精をしているのだろう。いつだか「緑色に咲くサクラがあるんですよ」といって、見せてもらった。たしかにほのかな緑色で、ずいぶん目にやさしいサクラだと感じた。そのまま、小道にいける勝手口から出て行ったのだけど、そこは普段は、ちょっと遠慮して使っている。ずいぶん、うるさいらしいから、一階に住む彼女の邪魔はあまりしてはいけないなと感じる。

ひょっとしたら土もずいぶん豊かになっているのだろう。いつだか秋田からやってきた旧友がろくでもなく酔っ払っていた。旧友は酔いしれていつか床に寝ていて、気づくと起き上がって、うぞうぞと外へ向かって行って、どうしたのかと思うまもなくベランダから地面に嘔吐した。ちょうど雨も降っていたから雨の中かれのだしたものを掃除したのだけど、何なのと思う。そんなものも吸収して、土は育つのだろうか。いや雨に流されて洗われていてほしいよ。

窓から見える景色は、変わらぬようでうごめいている。春の生き物のように。春の、心持ちのように。

2023年1月17日火曜日

1.17-18 _豊かさについて

梅田の阪急でみた上出長右衛門窯×kamide shigei×上出惠悟という人びとによる「KUTANNI CONNEXION」に豊かさを漠然と感じたのだけど、それは豊かさを作ろうとする、豊かさというか。というところを考えておきたいと思った。

それを感じたのは、展示にいった日の昼に見た、写真家の谷藤貴志さんの展示(flostsam books)からつながっているのかもしれない。

谷藤さんはずいぶん前に知り合って、長いこと消息はなかったけれど、

昨年急になんか写真集を出して、送ってくださった。聞いたら、昨年じゃなくて一昨年だったらしい。

モノクロームの写真が淡々と並んで、いつの時代か分からない、撮り手も曖昧な感じがする・・・、不思議な本だった。

妙にイメージに残るけれど、具体的な意味を語らないもの。

ただ、その谷藤さんという人の生きてきた物語がある様な感じはしていた。


それは家族の、一族の物語でもあるのだという。

二世代まえに日本に集団で移住した一族のなかの、彼の家族。

それと、色々な土地で時間をともにした人との濃厚な記憶が絵になっている。

どこか抽象的なおもむきもあって、画がいい。

最初に訪れたときは、壁面にあるキャプションのない、電車の中の父と子の写真に惹かれたのだけど、それは思えば谷藤さんの写真の、とても好きな一枚だった。車窓からはいる光がやさしい。

撮ったのは谷藤さんだけではなくて、親族の撮った写真も無造作(のように)置かれている。「写真家」という個人にしばられない、何か選び手としての手の運び方が面白く、色々な見方ができる。

ちょうど訪れた知人の京都の古道具屋さんを前に、飄々とスライドをあやつる谷藤さんの感じも、四方山話も素敵でした。


さて、上出さんの展示に感じたのも、そこから続いている。

一個人の可能性とかやりたいイメージにとどまらず、そこに生まれたことだったり、美術家として生きていることだったり、デザイン的な素敵なセンスもあるし、とはいえ無理をおして継いだ稼業、その経営を日々あくせくとこなしていたり、、、表現とか仕事とかコミュニケーション、生活・・・ないまぜになった複合的なことを常にしている。

判断につぐ判断、合間にうまれる奇異なイメージ、変態的な発想。

そんなものがないまぜになる根っこのところに、やはり自分の根である大きな一族・・・窯があるんだなと、ギャラリーツアーと題したトークをきいていて感じた。

すごくありていな言い方でいうと、伝統がなしてきた暮らしの豊かさを、その場を保ちながら今の人に向けて、出し続けている。あらゆるモチーフやかたちに理由があってその濃さって面白いし、それが暮らしにあることに豊かさを感じる。そんな豊かさを、普通に、真正直に彼の視点で生み出そうとしている……そうしたことを感じていた。

そのトークの記録を取り忘れていたのは残念だけれど、それは渾然としているから続くのだろうし、渾然となったところから生まれる力もあるのだろう。そんな感じで、上出さんはつらつらと、言葉をゆっくりと選びながら話す。ゆっくりと、というのは大切だ。自分の呼吸だから。

「デパート」への憧れとか楽しさを空間で描き出していたのも楽しかった。デパートというのにそもそも抵抗感があるからその楽しさは芯から味わえなかったけれど。向かいに「九谷焼最前線」のような展示をしていたのも面白かった。いやでているものも面白いと思うのだけど、色々な視点が入り混じるCONNECTIONのほうが大層はまった。


いつかから熊に突然惹かれた上出さんの、熊についての話に、ちょうど読んでいるアミタヴ・ゴーシュの『大いなる錯乱』(以文社)とのリンクも感じた。それは近代というか現代がつくった仕組みによって、ないがしろにされたもの・・・というか「思考しえぬもの」となった物事のこと。でもそこに拠り所が、本当はあるのでは? という話なのかな。文芸の先端の人が語っているからまた面白いし響く。というか、気づいてないことばかり。まだ途中だからはっきりしたことは言えない。

上出さんの仕事についても、もっと考えていきたいと思う。


それで豊かさというのは、自分自身、類縁がそこまで多くないのと、あまり歴史をかえりみないところがあるから、なおさらそう感じるのかな〜〜と思った。


雑然とした週末の記録。

それらを結びつけるのは、ただ私が感じたことその一点のみ、なのかな? 東京にかえってから見た本日休演と山本精一play groundEASTのライブも僥倖のように素敵だった。あの空間に音が広がっていく感じ、声がしんと響く感じ・・・、また書きたいと思う。

とりあえずそんな豊かさを思ったことと、生まれ年の今年のおまもりとして、ウサギの水滴を買った。机上に、今にも跳びそうにしゃがんでいる。

持ち心地のいい未来派。


2023年1月8日日曜日

鑑賞者の状態(1)

本について思い返してみると、展覧会のことや様々なライブのこと、買ったCDやDVDのことなども振り返ってみたくなるけれど、あまりちゃんと記録が残っていない。

ジャズ、アンビエント、フォーク、アンビエントなジャズ、ソウルフルなジャズ、ディープなアンビエント、フリーキーなフォーク、パンク。聴いた音楽についてまとめようとすると、どうにも、なんかキザったらしいものばかりに見えてしまう。

代わりに思ったのは、鑑賞者の状態について。いつからか池間由布子さんのライブに通うようになった頃から意識するようになったけれど、やはり状態が大切だ。体力と心持ちと。つまり、いきせききって急いでいくようでは、フルに楽しめない。息を整えたり、あと、なんか残してきた想念がライブの間もしきりに思い出されたりする。それはそれで何だか頭が回転して面白いのだけど、ライブそのものの感じを楽しみきれていない感じがする。

あと飲みすぎると寝るし、飲まなさすぎてものりきれてなくて楽しくない気もする。とはいえライブの性質もある。静謐な音楽というとヘンな言語だけれど、そんな場もある。うるさくたって、がんがん眠気はやってきたりする。それは演者のテンションだったりその日の演奏が自分の波長に合うかどうかというのが肝要であるけれど、いかにいいコンディションで見るかが大事になってきている。

なにかライブについて考えるとすると、上がりすぎて管楽器のようになった哲夫と又サニーと潮田雄一+久下恵生はほんとうにすごかった。それと池間さんも年の半ばまであまり見れてなかったけれど、なんかすごく進化している。年々知名度もうたも成長しており、刺激を受ける。あなたとわたしと船の歌が刺さる。と思えば昔からやっている曲も変化を続けていてそれも面白い。そのよさは当然として、とても真摯な人だと感じる。

菊地成孔さんのラディカルな意志のスタイルズも、ものすごかった。音源がまだ出ていないからこその面白さもとてもある気がする。聴いてしまうから、何か覚えがあるもののように感じて、脳内再生されてしまい、新鮮な音への感覚が弱まるのかもしれない。バンド名からしてもそうだけど、無性に文学を思想を感じる。もっと見てみたい。

音源もそうとう色々きいたけれど、ひとつ上げるなら、KRISTO RODZEVSKI『Batania』はものすごくきいた。とても豊かな音。ユニオンのキャプションに、玄人揃いで何度でもいつまでも聞けるもの、と書いてあったのがその通りで、やはりユニオンはすごいと思う。

美術館にも意識的によく行っている。美術の仕事からはなれて4年経つけれど、なんだかやっと仕事の視線からはなれて見ることができるようになった、気がする。仕事とは技術であるから、どうしても感性も仕事の感性に食われるところがあった。感性はだいたい一つのはずだから。

キャプションを見ずに進めて、気になったらキャプションや解説を読むのは変わらないけれど、だんだんとキャプションも楽しめるようになってきた。立花文穂の展示が断トツで素晴らしかった。あの自由さ伸びやかさ、唐突な音楽など、すごいものを見た。あの均整のとりかたも、すごいし、どこかかわいい。大竹伸朗、リヒター、数々みて残っているものは多くあるけれど、大竹さんは薄塗りの薄明かりみたいな大きな絵と、リヒターは最後のドローイングに心惹かれたのをよく思い出す。

あ、ウォーホルキョウトもすごくよかった。あの規模で初期のドローイングを見られるのは稀有なのでは。予算都合もあるのかもしれないけれど。やはり線と色の力が卓越していて、でもやっぱり、何か時代を見越した目がすごいのだなー・・・、などと感じる。

もう一つすごかったのは、去年でなく今年見たけど諏訪敦さんの府中市美術館の展示。みすぎて燃焼したのだろうか……すごいストーリーであり、ドキュメントだった。絵画を見る、ということの面白さやヤバさを思ったのは豊田市美術館の奈良美智展以来なんじゃないか。人物がもちろんすごいのだけれど、あの発光しているみたいに置かれた静物画。そこにさす炎、光と煙。そこに艶かしさを感じるというのはどういうことなのだろう。順を追ってじっくり見られた府中という場もとてもよかった。

だからそう考えると、現代絵画のよさは、同じ時代同じ空気を摂取しているからこそ伝わるものは大いにあるんだろうと、あらためて。リヒターは正直ぐっとこなかったし、大竹伸朗は勿論とても尊敬する存在だけれど、どうもその行為の軌跡ばかりが頭に残ってしまって、作品そのものにぐっとくることが少なかった。

ギャラリーでは横山雄さんの展示を2回見た。彼はすごく卓越したカラオケ者というのにもおそれいったけれど、あの線に込める感じとバランス感に、もっと続きが気になる。井上有一のような現代書道にも通じるものがあるのでは?どうだろう。絵画というのが絵具という物質からなる抽象であるように、「線」というのは抽象なんだ、というのも感じた気がする。ミニマルで豊かなもの。ギャラリーといえば遠藤薫さんのあざみののグループ展もよかったし、あとは森岡書店などでのLEE KAN KYOは手伝っている身ながら、いいものを見せてもらった。「手作りのNFT」なんて本人がいないと、同じことをいっても説明のつかない感じがすごい。でも本当は絵がうまい人(STUDIO)なんだなとも思う。でもむしろ、目とかコンセプト、粘り強さがすごいのだろうな。大阪polの平木元の個展も素晴らしかった。額装自体が素敵だし、ああやって、額装で一枚一枚見てみたいとずっと思っていた。日本語のタイトルというのも、その場でのストーリーを考えるのにいいのだろう。どこまで説明するのかは、按配が必要だけど。なんだか、暗いし哀しい、けれど前向きな何かを感じた。ブルーズというのだろうか。色々と、試しているみたいだ。

映画館では、年明けに見まくったタルベーラはすごかった。サタンタンゴはもういいけれど、あの不良ミュージシャンの映画はまた見たい。すずめの戸締りもよかった。あとは、わたしは最悪、か。ストーリーの語り方のレベルが段違いだった。あ、ヴェンダースのオールナイトもよかったな。岩波ホールでの、チャトウィンの映画も。

フタつきの缶というか瓶のチューハイが大層役に立つことが分かった。

思い出していくときりがない。


2023年1月7日土曜日

昨年よかった本

・ラーナー・ダスグプタ『ソロ』

 小説ってこんなに面白いんだと久しぶりに思い出した。ソロの演奏の場面や生命がリンクする感じがすごい。しかし細かい内容は覚えていない

・チャトウィン『黒ヶ丘の上で』

 静謐なのに、どこまでもドラマティックというか、リズムがすごい。ガルシアマルケスの100年というのがあるけれど、まったくまともな100年。しかし双子というのが不思議な装置なのだろう。住んでいる地域を「面影」と邦訳しているのがとてもよかった。チャトウィンは映画も素晴らしかったし、もっと小説があればいいのにと感じる。あ、『ソングライン』も素晴らしかった。

・エンデ『ものがたりの余白』

 エンデももっと読んでみたいと思って岩波現代文庫を揃えたが、思いの外硬質すぎて、なかなか入り込めない。エッセイをつらつら読むのがとてもいい、箴言みたいな。それで語りのこの本が結局とてもじんわりしみた。

・しりあがり寿『マンガ入門』

 うれしくもしりあがりさんと遭遇することが出来て、その後読んだ。構成や作り、あの朦朧としたセンスが、ほんとうに好きな作家なのだけど、評価が追いついていないと感じる。本もそう売れないのだろう。とはいえ、ぬきんでている。とても仕事のできる方なのだとも一方で思い、そうした仕事やマンガの作り方が淡々と、とても上手に描かれていて大切な本な気がする。

・オルガ・トカルチュク『優しい語り手』

 『逃亡派』だったり『夜の家、昼の家』だったりいつもタイトルが抜群に好きなのだけど、内容もとても好きだ。旅がある、ヨーロッパらしい。

・アンドレア・バイヤーニ『家の本』

 構成がツボすぎた。「家」が主体で「私」を客体でみるという語り方にとても惹かれる。読みにくくて疲れるのだけど、だんだんと抽象的な「私」の像が近づいたり遠ざかったりして、愛おしくなる。

・ウィリアム・モリス『小さな芸術』

 100年以上前の講義録。疲れた。疲れたのは、その時代の話している情景を想像するのが大変だったからだろうか。あるいは話自体がどうも冗長で面白くなかったのだろうか。けれど曇りのない感じの語りに、ときにとても大切なメッセージを感じた。労働への誇り。楽しみ。それだけの粒度で、生活を見れていますか? かんの発泡酒を大量消費するばかりの日々に私たちは絶対見れていない。

尹雄大『親指が行方不明』

 尹雄大さんのテキストには不思議な呼吸があって、はまり出すとそのまま止まらず一気にいってしまう。それはすごい力なのだと感じる。こういう、どこか中道から外れたという感覚は、誰しもグラデーションであるもので、そこに視線がいったり行かなかったりする。などということを思うたびに、この方の本や書いたものを思い出す。

・田村隆一『ぼくの憂き世風呂』

 こんな語り方があったのかと驚いたけれど、うますぎる。洒脱でいやみがない。とても豊かな内省と対話の世界に、もっと今の人も影響を受けてもいいのではないのかと思ったので、何かにつけ参照してみて書ければとは感じる。

・池内紀『見知らぬオトカム』

 ひさしぶりに立ち寄ったカウブックスで、ふと見つけた。辻まことのことをよく考えている。これだけは読んでいなかった。あれだけ色々な分野のすきま、というか狭間から何事かを見ている視線と、それを描き出す術なのか。もっとこういう表現を自分がしていければいいな。

・『地図の記号論』

 金沢にいったのでオヨヨ書林に立ち寄ると、ふと目があった。「地図」についての本や語りにいつも惹かれるのは何故なのだろう。知らぬ作家さんの、戦時中の地図だったり。北海道のある街の見取り図だったり、上野の話だったり。いい。


思い出せる範囲で印象だけで書いてみたけれど、本当はこの倍くらいあったような気もする。しかし印象ばかりで内容をいかに覚えていないのか気づく。そういう感受性なのか。『ウェルベック発言集』は面白かったけれど、どうも馴染まないし読みにくい話も多かった。