2022年2月16日水曜日

悩みについて(1)

もやもやとしている。それは悩みというのだろうか。

悩みとは何だろう、うかつに人には言えないことか。

それとも何だろう。考えてもすぐには分からないこと。

それも、どうも考えても面白くないこと。

しかし、気になってしまう。それって、嫌いな人とか嫌な出来事のことに似ている。どうしてもうまくいかなくって、悩ましい。靴の中にしのび込んだ石ころとか、あるいは、のどに引っかかってとれない海苔とか、とれそうでとれない歯石。どうも、ひっかかりのある黒っぽいものを想像してしまう。


人との関係がそうだ。そうだ、というか、そこから生まれているものだ。そうじゃないことは、あるのだろうか。あるような気がして考えるものの、人との関係なくしてあることは、あるのだろうか。抽象化された概念などなら、もしかしたら悩ましいかもしれないけれど、それを考えることには、労苦はあるのか。


そのもやもやというのは、ある二人のことについてだろう。二人とも、よく知っている人だ。「よく知っている人」といえる相手というのは、きっと両手の指の本数にも満たない。お互いに、そうじゃないかと思う。勿論、全くすべて知っているというわけでもない。そのよく知っている人の二人は、お互いに長いつきあいで、どこか似ている。その一方で、どこか似ていない。誰しもそうかもしれないけれど、まあ、その二人はそうやって、昔から、どこか近づいたり、遠ざかったり、仲違いをしたりしている。そういう二人というのも、けっこう沢山いるだろう。


その話に、あまり遠回りしても仕方がないが、近づきたいわけでもない。話というのは、もやもやしているからだ。それで、二人は、バンドなどをしている。バンドというのは人がいう言い方だが、まあ一緒に音楽をして、決まった曲を演奏したり、決まっていない曲を一緒に試みたりしている。その中で二人は、ある役割をやっている、その場の空気とか、テンションに合わせて、その役割は微細に変化を続けるけれど、二人がいて受け答えをしているというのが大事なんじゃないかと思う。その中にはいないわけだから、勝手な想像でものを言っている。けれど、きっと音とかふるまいのコミュニケーションで、話は進んで、話というのは頭で考える前にきっと空間の中で磁場になって出来事になっていて、その出来事を、それぞれの立っている地点で感じている。それがつみかさなる時間になる。それが、ライブというものだろうか。


ライブというのは最近ずいぶん間遠になっているけれど、先週に久しぶりに、好きなミュージシャンが演じている、小さなジャズバーでのライブにいった。ギタリストは「この世界が生まれてから、同じ音はひとつとして存在していないし、あなたが何を聞いているか見ているか、それは決して分かりようがない」といったことを、ライブのあとに飲んでいると、話していた。真っ直ぐに私の目をまなざしてそう言う。


話がそれてきているけれど、モヤモヤとしているから、どこへ行ったってそう変わらないことだ。脳の毛細血管のトラブルから発するモヤモヤ病、とかではない。現実にもやもやしているスモッグがかかっていて、私のあたまのなかは、どうも先が見えない。先が見えないことが、むしろ面白くもあるのだろう。そう、まなざしのことを言っていたけれど、そのまなざしも、どこか面白みを含んでいて、好ましく見えるものだった。それは、そうしたまなざしが交わされているから、音というのは面白いのじゃないかなと感じられた。すこし飛躍しているだろうか。けれども先に話した二人というのは、どうもここのところ断絶していて、しかし見えない線で傷をはらんで互いにひりついていて、それがどうにもモヤモヤしている。時は、何かを直したり、何かひずみが埋まったりしていくこともあるかもしれない、地面のように。


あ、息が急いだ。

急いでも仕方がない。