2023年4月16日日曜日

坂口恭平日記を見た日記

熊本へ、「坂口恭平日記」へいった。

あのパステル画を見ておくのは大切だと思った。

気づくと3時間、4時間はえんえんと見ていたのだけど、

見ているうちに、色々と考えながら触れていたのが、感じるだけになっていった気がする。考えるのがどうでもよくなっていって、何か透明な描き手の視点だけが感じられるような、気がした。

こう長いこと見ていられるというだけでも、すごいと思うのだけど、

「すごい」と言ってしまうことに最近抵抗を覚えている。すごいの一語で思考停止しているんじゃないかと。

だから何となく、感じたことを書いておこうと思った。

とりあえず手を動かしてみようかと。ほんとうは絵や現場の写真なんかを交えた方が、

読む人は分かりやすいのだろうけど、一旦は面倒なのでしない。


「大気とか、空気の動きを見ようとしている」

そんな話がどこかに書いてあった。空気の流れだったり、大気の動きだったり。

空気の粒子と、パステルの粒子はきっと相性がよく、無造作な感じに足されている線、すこし試すように地にひかれた跡とか、そうしたものが妙に目に残る。

その日のその時の光。季節とか、天気とか、気分とか、作家の中で色々な要素が行ったり来たりして、けれどとても透明な感じで絵になっていく。透明な感じ、を感じる。感じを感じていて、どうしても、ピュアな目で見れない。何か、仕掛けているのではないかな、と感じてしまう。

というか、その透明さ、我の薄さ、それ自体が作家の作意なのかなと思う。

そんなことを考えてしまうのも自分の悪癖かもしれないと疑う。感じるものを感じるままに感じたらいいのじゃないとも思うけど、それより楽しい楽しみ方が、絵にはきっとあって。

透明というものの時に乱れている時もあって、以前に描いていた抽象とか、時期ごとに揺らいで生まれてくる。人物が出てくる時に、そんな心の動きが出てくる。

そう「展覧会」ではなく「日記」だから、絵の「良し悪し」とは話が違う。



抽象、具象。誰がそもそも言った言葉だったか、忘れたけれど、絵というのはそもそもが抽象であるという前提もある。紙と塗料と手と、そうしたもので、本当はそこになかった視界が、紙の上に描かれ直していく。それにより生まれる抽象物。

でもそれって、今文字を打っているこの画面もそうだな。画面が開いて、そこに文字が勝手にうかんできて、高度なワープロソフトがいい具合に変換をしてくれる。

抽象でないのは、風景ぐらいか。

突然、「風景」が目の前に立ち現れてきた。

そういったことを作家は書いていたけれど、そんな時は人にたまに訪れるのかもしれない。どうだろう。そう一般化みたいに書いてみるけれど、作家がそう言うというのは、作家のそれまでの活動とか作ってきたもの、それまで考えてきた時間などが経ったうえで、個別の体験として「風景が立ち現れてきた」わけだから、それはあまねく「人」に訪れるものとは違う。

アイフォンで撮った写真を、手で現像しているような……

そう作家は話していたけれど、写真はそうだな、パステルと相性がいいのだろう。光の粒子ひとつひとつを、パステルの粒子に置き換えていって、描きだしていく。

「P0000」と作品すべてに書いてあって、Pは何だろう、日記のページなのか、それか別のアルファベットのものもあるのか、などと気にしながら見ていたけれど、係の人にきいてみると「パステル」のPだという。ほかにも意味はあるのかもしれないけれど、この話はそう広がるものでもないんだろう。



あと「日記」ということに、どうも納得がいかない。いや、この展覧会はいいのだけど、最近どうも「日記」をよしとする流れが身近にある。日記をzineにして読ませたりする。○○○○○日記という本とか、いわゆるコンテンツに多くある。昔から、そうだっただろうか。そうだったような気がする。どうもタイトルというのは、多くの人に共通認識があるものから選ばれるから、いいヒキになるワードというとどうしても、そう沢山ないのではないか。

そのなかで日記というのは、一番具体的な話で、誰にとっても共通する日付や時間という目次がある。主語は私であり、私という個性が、体験したことを私が振り返り、編集し、描く。インスタグラムのSTORYというのもそうだけど。

ただ、それは本来、人に見せるものなのか。どうも、気恥ずかしい。日記というと文学者の日記というものがよく出版されているけど、あれは読まれることを前提に書いているかもしれないし、文そのものが読まれるものとして書かれるし、それで生きている人たちのものだから、また少し異なるのだろう……。

はたと思い当たるけれど小学校の頃の課題の日記というのは何。読まれる前提の日記というのは、不純な意思を育てているんじゃないだろうか。それとも、プライベートというか個人的な感覚をさらすことによってお互いの理解を深めるための装置なのだろうか。

どういう経緯で日記が課題になっているのか、気になってきた。


好きなものを好きといえばいいんだよ!と、そんな声も聞こえる気がする。感じることについて何をそうくどくどと、考えているのか。

感じることについて、考えたいなといつも思っているんですよね。どうしてこうも、斜に構えては、まっすぐ返事をしないのか。でもその方がもっと面白いんじゃないだろうか。

好きな絵はたくさんあった。空の青、山の緑、こう春先の風のような何ともいえない、入り混じったような空気感。光を反射するような、パステルの粒々。何か言葉を話しているような、街路樹や、カーブミラー。ちょっと中途半端な感じの猫が、意外と一番印象にのこったりしている。

アンビエントな音楽も、場も、すべて何かここちよすぎて、ヒーリングみたいな感じもあった。ディープなヒーリングの設計。


翌日はじめていったMuseumにあった新作が、またよかった。暗闇に光るあれは何の木なのか。

とても元気をもらった。昨日帰ってきてからも色々考えていたのだけど、そういうことなんだろう。



ふと撮った猫の絵