2011年8月29日月曜日

kami no blog 1 2

紙のブログWEB版②

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子どもが前を歩く、横を歩く、
わあと喝采をあげながら、無意味にこの休日を祝福している。
時には発情する猫のようにわああぁと哭いたり、自分だけの発見を得意げに語って聞かせ、あるいは、誰も知らない詩を口ずさむ。
子どもの妄想、止めどなく、血のように走ってるんですね、この世を、、、わあと宙に舞ったり、すあと海を潜ったり。
夢と現がごちゃとなり、ぐちゃ。
子どもと腕組みして休日の荻窪を歩く日を夢見る。また一方で、子どもをとても恐れる。私はドウブツを見るのはとても好きだが触るのは苦手でむしろ、無理。だからそれと同じように感覚しているのかもしれない。
「子どもの妄想ってナンですか??」 そう人に聞き廻ったが、その行為がおそらく、子どもの妄想のようなものだったろう。不条理で、もともと意味がない。ないわけではないが、どこにあるのか、、
妄想は子どものものではない、しかし子どもの現実認識はとても曖昧で、夢とぐちゃ。その認識の世界を聞きたいのだった。色々あるでしょう。そもそも覚えてないという人もいる。
、、、、、( 7行はいる )
腕組みして、考えている。

Jun 19

紙のブログWEB版①

またたく間に旅を

11/05/11
  猫がわたしを真っ直ぐ見ている。夜の路を、片目をかくして歩くと、視界に5匹の猫が見える。彼らは生け垣のそばを行く、わたしが歩くとそれにつれ、手で回 すフィルムをまわすように、横を通りかかる、一匹がもう一匹を追い越し、うしろの一匹が追いすがり、前後しながら前に行く、先には垣根の曲がり角があっ て、下水溝がある。だから近づくにしたがい一匹ずつ、垣根の向う、林の中へと消えていった。

それはわたしの夜道のおよそ100メートル か、駅を出て左に曲がり、床屋のある角から次の角まで行く路の半ばまでのことだった。はじめ、駐車場に猫がいる。それはいつもいるから、いるかな、いるか な、と思っていると大抵いる。別に何も考えてなくても、いるから、ああ、いるなあ、いいなあネコはよ、と思ったりする。

けれど1匹と思っ ていたのが2匹、3匹と増えていって、4匹になったのはとりあえずいい気がした。そうして4匹を見送ると、その下水溝のすぐ先、最近空き地になったところ に一匹の猫が佇んでいる。座っている。こちらを見ている。やあもう一匹居てよかったなと思いながら横目に見ていると、わたしが歩くにつれ猫が顔の向きを変 える。後に戻ると、また後をみやる、暗くてよく見えないが、光る猫の眼はわたしを確かに見ている、追っている。

立ち止まる、少し猫に歩み寄る、すると同じだけ猫は遠ざかって、けれどまた同じポーズで座っていて。

何 だかだんだん小さい人のように見えてきた、男とか女でもない、原初の人のような、仏のように見えてくる。しかし仏の耳はぴんとたっていて、その日みたウサ ギの木彫があったのだけど、それは端正なカオをしていて、真直ぐに耳が立っていて、ちょうどそのように猫の耳が立っていた。顔は小さく、しゅっとまとまっ ている。

わたしは女性に魅かれるようにその猫に魅かれていた。立ち止まって足は離れない、彼女もこちらをずっと見ている。そうして人の通ったり車の音がするとふと、そちらを見やる、けれどゆっくりとこちらに顔を戻す。

その外し具合が何とも素晴しく、見てもいいのよ見なくてもいいの、そう夜の目が言っている。

わ たしは先ほど細野晴臣の最近文庫になった対談集を読んでいて、対談というより抜群の聞き手が細野氏の言葉を汲み出すような案配なのだけど「そば打ち」とい う項に素敵な言葉がある、ちょうどそう悩んでいたのだった、だから何か素敵に聞こえたのだけど、「人は未来が見えなくなると過去にこだわるようになるんだ よ」そう言っている。さいきん放っておくと過去のことばかり文章にしようとしているから、よくないと思っていたから。

だからわたしは猫と未来について書こうと思った。けれど猫に未来はあるのか、猫の花嫁さんか、それはいいのか、とてもいいと思う。

ああ今地震がしている。猫はどうしてるだろ、

猫が走った、稲妻のように、ゆっくりと走る。

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