2017年7月3日月曜日

音と日々 5、6月

芝居や映画、興が乗ったり一緒に行く人がいると通い出すが長続きせず、結局よく見ているのは弾き語りのライブである。それをフリーフォーク的というのか、それとも単にフォークというのか、人に伝わる言葉がよくわからないが、スタイルとしては弾き語りなのだろう。ひとりが、楽器を弾きながら歌う。主にギター。又サニーやシャラポア野口、知り合いにもそれをやる人が多い。
それを仕事終り、適当なときに行ってビール飲みながら見る。平均して週一回は見ている。

先週、晴れたら空に豆まいて、で、のろしレコードを見る。
それは3年前か、下北沢の地下の薄暗い店でやっていたのを見たのが最初だった。九龍ジョーさんが行くから行ったのだった。この文章も九龍さんが書いてみたら、と言ったのがきっかけで書いている。かといって何か大それたものを書こうというわけでもない。とりあえずだらだら書く。ブログだから見直して気になったらどんどん直す。
前に見たのが昨年末のセブンスフロア。季節も場所も違う。床に座るのと、あの暗めの感じがはまっているのか、音の伝わり方か、いや何だろうかな、とても深まっている気がした。聴きたかった合唱の河を渡る、は聞けなかったけれど、何だか色々腑に落ちた。あれは潔いというかシンプルな構成がものを言ったんだろうか。
夜久一さんが凄かった。死にたいと何かすっ、と歌っていてそれもまた腑に落ちる。ああいうことを言って馴染んでいるのは凄いと思う。つまびくギター、骨太な声。ブルーズなのだろうけれど、ブルーズという語の泥臭さを一直線に行きながらも泥臭くない。どこか瀟酒にも聞こえる。ジョニーキャッシュとかディラン、そうした音楽を思うけれど、何か鋭い刃物のようなところがある。そう死ぬ前のキャッシュがジョンフルシアンテとやっている曲があるけど、何かそれをフト思う。
折坂さんや松井さんもよかった。すごい過去のような、あるいは未来のような、詩情、、時間がもうよくわからない。ここでは夜久さんのことを思う。たしか年下で、よく見ると優男なのだけど、牛のような感じがする。のらりくらりとした凄みがある。

思えばブッシュバッシュや日の出町視聴室、あと小台ブリュッケ(池間布由子)。そんなところで弾き語りをよく聞いている最近。やっぱりうつ向きがちなニックドレイクみたいなものは、好きなのだろう。それはシンプルだからこそ豊かなあれこれをはらむのだろうか。ギターと人の声、アンプ、チューニングの聞き慣れた試しの音、指が弦にこすれるヘンな音、ループ。
フィーバーで見た柴田聡子やイ・ラン。ピットインで見たミラクルなショロウクラブ。そうしたものも素晴しかったけれど、何か人と酒を飲みながら話しながら、話の中身を考えながら聞く歌もまた面白く。あるいは演者とのやりとり、ヴェルベットの懐かしい歌。
この言葉は苦手だけど人に接近している気がするのかな、でも実際は思えば思うほど実像と遠ざかり空転するところはある。思わないと何かバッタリ会う。って恋の話みたいだ。

そういえばこの間ある作家の個展に行ったらタロット占いをやっていた。それはタロットになぞらえた新作シリーズだったからなのだけど。そうして占ってもらったら何かエラい大変なことになっていて、今年は大変すぎますとのこと。たしかにバタバタしている。大きなものに流されながら静観すべきと言われたけれど、何に流されているのか自分から流れているのか、よくわからないよね。

そうして今日は人に誘われ表参道のクラブみたいなところで満場の思い出野郎Aチーム。皆うまくて熱くて、そうボーカルのあのしゃがれ声は、いつか見た行方知レズなみに胸に届くものがあった。なんて言っていたっけ? 雨が降る、傘ぱくられたからビールを買う、そんなうた……それも又いい。そうだあと日常のリズム。内容はブルージーだ。
人びとはソウルフルなのか、満員電車みたいななか、近寄ると大体こちらを一度見る。目を合わせてくる。誰。
ギターのサイトウさんという人に似たウサギの指人形を友人はずっといじっていて、指人形って何かいいよなと思う。作ろうか。

気づくのは自分は地声で届くような密やかなところばかり行っている。その方がしぜんと、伸びやかになるんじゃないかな。ええと、気兼ねしないというか。
そうして音のある空間について考えている。
音は声は、不思議だ。


(つづく)





写真:過日の哲夫と過日の満場

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